不安と恐怖の先にあるもの(蔵前仁一:旅行作家)#不安との向き合い方
ツアーではなく、個人で知らない国、知らない人々に分け入っていく旅は、とても不安が大きいものです。トラブルに巻き込まれるのではないか、病気になってしまうのではないか、考え出せばきりがない不安を抑えて、旅に出る人が絶えないのはなぜなのでしょうか。バックパック1つで身軽に旅に出る、バックパッカーの旅の第一人者である蔵前仁一先生に、旅と不安との関係について、お書きいただきました。
旅立ちの不安と恐怖
知らない国へ行くのは誰でも不安を感じるものだ。それがバックパッカーのように自分一人でホテルや交通機関の手配など何もかもやらなくてはならないとなれば、ますます不安は大きくなる。
僕も初めての海外旅行でアメリカへ行ったとき不安を通り越して恐怖感を覚えたほどだったし、初めてインドへ行ったときは、飛行機から降りたくなかった。今でもその不安感は身体のどこかに染みついている。
楽しい海外旅行に行くのに、なぜそのような不安や恐怖を覚えなくてはならないのか。そんなものを味わうことがわかっているのに、海外旅行へ行く人の気が知れないと思う方もいるかもしれない。
それではなぜ僕のようなバックパッカーは恐る恐る見知らぬ国へ出て行くのか、僕の考えを述べてみよう。
なぜ不安や恐怖を覚えるのか
そもそも、なぜ見知らぬ国へ行くとき不安や恐怖を覚えるのだろうか。もちろんそれは右も左もわからない、言葉もろくに通じない、そんなところで泥棒に遭うかもしれないし、だまされるかもしれないし、病気にかかるかもしれないし、などといった様々な理由があるだろう。
このように「かもしれない」と考えるのは、目的地に関する自分の知識や情報がもたらす「先入観」だ。インドは汚いし、だますような悪い奴がいっぱいいるという情報が不安や恐怖心を抱かせる。
インドに関して言えば、それらはあながちまちがってはいないので、初めて行く場合はかなり恐ろしく感じるが、それでもたいていの場合、下痢にかかるぐらいで大きな問題もなく旅はできる。
例えば日本の観光地へ初めて遊びに行くのに、不安や恐怖を感じることはないだろう。それはそこが安全であるという情報があるからだ。毎年行っているようなところだと、自分でも安全だということを知っているので無防備で出かけられる。
つまり自分が安全な場所だと知っていて、無防備で行けるところから外れたところへ行くことに、僕たちは不安や恐怖を覚えるようになっているのだ。
旅に出る理由
旅に出る理由は何だろう。美しい海辺でのんびりしたいとか、有名な凱旋門を観たいとか、ルーブル美術館で名画を堪能したいとか理由は様々だと思うが、どのような場所であれ、そこへ向かうときに不安や恐怖心を覚えたとすれば、そこはその人にとって無防備ではいられない場所だということだ。例えば上野の美術館へ向かうときに銀座線や日比谷線に乗るのに恐怖を覚える人はいないだろうが、ルーブル美術館へ向かう地下鉄で怖いなと思うかもしれない。それは「パリの地下鉄にはスリが多いから気をつけるのよ」と誰かにいわれたせいかもしれない(本当に危険かどうかは知りませんが喩えです)。
しかし、ちょっと勇気を振り絞って地下鉄に乗り、ルーブル美術館にたどり着いて目的の名画を見られたときの感動をあなたは忘れないだろう。それは上野の美術館で銀座線に乗って見たときの名画とはひと味違うものになるかもしれない。友だちにその話をするとき、名画の前にまず「パリの地下鉄ってどうやって乗っていいかわからないから駅員に聞いてみたけど言葉がわからないし大変だったわ」という話から始まることになる。上野の名画の場合、銀座線に乗ったことから話を始めたら友だちはうんざりするだろう。そして、「パリの地下鉄は危ないといわれたけど、そんなことはなかったわよ」と地下鉄の体験も付け加えたりする。僕はそれこそが旅だと思うのだ。
自分の「常識」を覆す旅
海外旅行とは異文化の中に分け入ることだ。言葉も慣習も価値観も、ときには宗教も異なる。自分が慣れ親しんだところから出て行くのに無防備ではいられない。不安や恐怖を感じるのは当然のことで、それが大きければ大きいほど自分にとって未知のエリアへ突入していくということだ。そして、その不安や恐怖心の先に自分が知らないものとの出会いや初めて体験できることがある。それは往々にして自分の「常識」を覆すことでもある。
僕が初めてイランへ足を踏み入れたとき、イランの評判は散々だった。イランを旅した旅行者から話を聞くと、食べ物はまずいし、厳格なイスラーム主義で息が詰まりそうだという。日本でも、イランへ行くというと、あんな危険な紛争地帯へなぜ行くんだといわれることがある。イランとイラクの区別も付かず、中東はすべて紛争地帯と思い込んでいる人が多いのだ。欧米寄りのマスコミ報道ばかり見聞きしていると、イランはならず者扱いされているし、イメージが極めて悪い。
というわけで、僕もハラハラドキドキしながらパキスタンから国境を越えてイランへ入った。本当の目的地はイランではなく、その先にあるトルコなのだが、陸路で行く場合イランを通らなくてはトルコへ行くことはできない。いやな国だったら通り過ぎるだけだから大丈夫だろうという気持ちで入国したのだ。
だが、入ってみたら悪い噂やイメージは完全に覆され、めちゃめちゃいいところだった。人々は親切だし、食べ物はうまいし、物価は安いし、見どころは多いし、こんなすばらしいところはないんじゃないかと感動したものだ。
もちろん厳格なイスラーム主義なのは正しいし、政治的にはおかしなところもある。だが、それとイランに住む人々の世界はまた別のものだ。厳格なイスラーム主義で外国人旅行者が守らなくてはならないことは、彼らの宗教に敬意を示し、女性が頭にスカーフをかぶる程度のことである。来る前は恐ろしがって五日で通り過ぎる予定が、ビザの期限ぎりぎりいっぱい五週間以上滞在した。
不安と恐怖の先にあるもの
現代はマスコミの報道やインターネットで世界の様々な情報が入ってくる。それによってイメージや常識が形成される。それでなんとなくわかったつもりでいる。だが、実際に行ってみると、それとはまったく違うということは旅ではよくあることなのだ。
旅はいつでも不安や恐怖とともにある。旅慣れているといわれる僕だって今でも旅には不安感や恐怖心を抱く。だが、僕が経験上わかっているのは、不安や恐怖があればあるほどその先には必ずおもしろいことがあるということだ。
旅の醍醐味は、自分がまだ見ぬ土地へ行き、知らない人に出会い、意味がわからない言葉を聞き、食べたことのないものを食べ、嗅いだことのない匂いに包まれ、見たことのない風景の前に立つことだ。それは常に不安と恐怖と、そしてそれよりもっと大きな喜びが伴っている。
執筆者プロフィール
蔵前仁一(くらまえ・じんいち)
1956年鹿児島生まれ。旅行作家、編集者、グラフィックデザイナー。1980年代からアジアを中心に世界各地を旅し、1986年『ゴーゴー・インド』(凱風社)を上梓。1995年、出版社「旅行人」を設立して、旅行記、ガイドブックなどを制作、刊行する。主な著書に『わけいっても、わけいっても、インド』、『インド先住民アートの村へ』、『失われた旅を求めて』(いずれも旅行人刊)など多数。