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2022年8月刊行『科学から理解する 自閉スペクトラム症の感覚世界』(井手正和/著)《書籍の序文をまるっと無料公開》

2022年8月刊行の『科学から理解する 自閉スペクトラム症の感覚世界』の著者、井手正和先生のツイートは、告知早々から1,000いいねを超えました。
本書の刊行を記念して、特別に本書のまえがきを公開します!
井手先生が本書に込めたメッセージを、発売前に少しでも感じていただければ幸いです。


本書のカバー絵は、ぷるすあるはの細尾ちあきさんにお願いしました。

そして決まったカバーがこちら!

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なお、本文フォントは、モリサワの「UD黎ミン」を使用しました。 「UD黎ミン」は、明朝体特有の細い横画にしっかりと太みをもたせた「ユニバーサルデザイン書体」です。

本書は、ASDの感覚に関する最前線の脳科学研究と当事者のアート=感覚世界がコラボした本邦初の書籍といえます。ぜひ多くの人たちに手に取っていただきたい1冊です。
それではお待たせしました。これより「まえがき」の紹介です!


 本書では、自閉スペクトラム症(Autism spectrum disorders: ASD)の多くの方でみられる感覚過敏をはじめ、感覚の問題に焦点を当てて行われてきた研究を紹介します。読者には、感覚過敏の当事者やそのご家族、支援者、ASDに関心のある学生や研究者などを想定して執筆しました。また、ASDについて予備知識がない方、感覚のメカニズムそのものに関心がある方にも是非お読みいただけたらと考えています。

 本書を読み進めていくうちに次第に理解されていくかと思いますが、ある人が経験する感覚と完全に同一の経験を他の人が共有することは、現在の科学では実現できていません。こうした難しさから、感覚過敏をもつ当事者の訴えは周囲から軽視されてきました。当事者の抱える生活上の困難や苦しみを軽減する一番の近道は、この問題に関心のなかった人も含めて、一人でも多くの人がASD 者の感覚の問題について科学的に妥当な知識をもつことだと著者は考えています。

 本書で紹介する研究の多くは、海外の研究グループが行った国際的な研究雑誌に掲載されたものであり、本書で紹介する著者自身の研究もそうした海外の雑誌に掲載されたものです。著者の知る限り、感覚の問題に関して基礎科学的な知見に焦点を当て、その研究の最前線を一冊にまとめて体系的に紹介する書籍は本邦初でしょう。

 日本におけるASD の解説本では、感覚の問題ではなく、中核症状と考えられてきた社会性や対人コミュニケーションの問題を中心に取り扱ったものが数多く見当たります。その理由は、ASD の社会的側面に関する科学者の関心が歴史的により早く高まったことにあるでしょう。社会性などへの関心が高まる一方、感覚の問題については、近年実験心理学や神経科学の分野で研究が進んでいるものの、しっかりと日本語で解説されてきませんでした。このため、科学的に妥当だとはいえない情報が世間に広まっていたり、誤った情報に基づく治療的介入の宣伝まで目にすることがあり、そのたびに何もできない自分の無力さを感じてきました。

 そこで思い至ったのは、研究者のライフワークとして私が収集している最先端の科学の情報を、私自身が一般の人向けに伝えるということでした。

 「なにを当たり前のことを!」と言われてしまいそうですが、日本ではこうしたアウトリーチといわれる研究者による一般向けのサイエンストークはさほど活発ではありません。実現するためには、個々の研究者がまずアウトリーチの場を作るところから始める必要が多くの場合で生じます。それでも、私の研究に期待をかける当事者とご家族の思いに応えるため、私にできる唯一のことだと、積極的にアウトリーチを行ってきました。そうした活動を行っている過程で、本書の執筆の依頼をいただき、書籍という形で整理しておくことも大切だという思いに至りました。

 本書は、私の知識の一部を読者の皆様が自分のものにし、科学的に妥当な知識を基準にして、日々の生活で新たに触れる情報が妥当かどうかを取捨選択する武器にしてほしいという思いで行ってきた情報発信活動のひとつの形です。

 私の専門分野は実験心理学と神経科学です。ただ、語尾には「です?」と、ハテナマークをつけたくなります。自分の専門分野を正確に説明できないくらい、様々な分野に足を突っ込んで研究してきました。大学では臨床心理学を専攻し、カウンセラーを目指しましたが、紆余曲折あり実験系の心理学のゼミに進む選択をしました。その後、大学院からポスドクと進むにつれて、あれよあれよと触覚に関する知覚系の心理学実験を中心に、脳画像解析まで手を出し、さらには、よりミクロな神経細胞レベルのはたらきにも関心をもち、マウスの行動薬理実験にも携わって今に至ります。こうした経験から身に着けた技術は今も継続中の研究に活きています。

 これまで臨床分野のテーマとして多く扱われてきたASD の感覚の問題について、基礎科学の立場からまとめあげた本書は、臨床心理学と実験心理学の両方の領域で様々な研究分野を渡り歩いてきた者だからお示しできるものになったのではないかと思います。

 本書では、ASD の感覚の問題の実態について、臨床分野でどのように捉えられてきたのかということから、実験心理学分野と神経科学分野における実証的研究が明らかにしてきた脳機能の役割まで、新しい知見を盛り込んで紹介しています。

 専門的な内容が多く含まれますが、ASD の感覚は、知れば知るほど興味が湧くとても不思議な世界です。ひとつ知識をもつと、これまで普通だと信じて疑わなかった自分自身の感覚についても疑問が生じてきます。自分と周りにいる他人は、実は同じ世界を見ていないのではないか? そもそも自分の見ている世界は脳が外界を単純化して捉えるためのシミュレーションであって、ありのままに近い世界を見ているのはむしろASD者の方ではないだろうか? 本書を読むことで、こうした疑問をもちながら、どのように感じ方の個人差が生まれるのかについて科学的な理解を深めていただけたら幸いです。

 本書では、各章の末尾に、本文の内容を補う形でコラムを配置しました。コラムを担当したのは、私と一緒にこれまで研究をしてきたメンバーと共同研究者たちです。それぞれの専門性に関係する話題について解説してもらうことで、本書の一貫したテーマであるASD の感覚の問題に関係して、どのような研究の発展や応用が進められているのかを知ってもらえたらと考えました。

 私の「思い立ったら止まらない」性格に長年付き合って力を貸してきてくれた学友でもある渥美剛史さん、大嶋玲未さんは、いつも自分の支えとなる存在です。基礎研究から得た知見を当事者のために活かしたいという思いでつながった作業療法士の松島佳苗先生は、最も信頼を寄せる大切な共同研究者で、これからも目標の達成に向けてご一緒していけたらと思います。運動の研究を支えてきてくれた梅沢侑実さん、私と同様に知覚機能に関心をもって研究を進める金子彩子さん、臨床心理士としてのバックアップをしてくれてきた王怡今さん、いつもありがとうございます。

 本書の表紙の絵画と各章の扉絵の挿絵は、NPO 法人ぷするあるはの細尾ちあきさん(本書では「チアキ」さんと呼ばせていただきます)が描いたものです。チアキさんはご自身も感覚過敏の当事者であり、感覚過敏をもつ子どもが普段の生活で悪戦苦闘する様子を絵本で描いています。私がこの絵本を大好きになったことから、今回の挿絵をお願いする経緯になりました。チアキさんの描いた表紙と挿絵については、本書の最後となるコラム8で、本書で取りあげる科学的知見からどのように解釈できるのか、謎解きのようにして詳しく解説しています。また、NPO 法人ぷるすあるはさんの運営するホームページ「子ども情報ステーション」では、チアキさんご自身の感覚過敏の体験やその対処法について情報がありますので、是非ご覧ください。

 第3章と第7章で紹介するASD 者の知覚する世界を表現したアートは、しずねさん、きさらぎ こうさん、牧野友季さんの作品です。しずねさんは私たちの実験にご協力いただく過程で絵画を描くことにおいて優れた才能をもつことを知り、2021年の4月3日にオンラインで開催したシンポジウム「絵は感覚のふしぎなのぞき窓」で作品を出展していただきました。きさらぎさんと牧野さんは、同じシンポジウムで作品を出展していただくとともにご自身の作品の制作秘話を語っていただいたことが経緯で、何度かオンラインでフランクに話す機会をもち、本書の執筆にあたっても力を借りました。

 今回はASD の方が感じる世界を共有することを目的として作品を紹介していますが、きさらぎさんはアーティストとして積極的に活動をしており、その過程で何度も入賞を果たすほどで、ユニークな感覚は多くの人に認められる才能として開花することがあることを示しています。上記のシンポジウムで取り挙げた絵画作品たちはYoutubeの発達障害シンポジウム2021のチャンネルで公開しています(https://www.youtube.com/watch?v=P24ztb0-e5Y)。よろしければご覧ください。

 本書の内容について、ひとつお伝えしておくことがあります。感覚過敏の対処グッズや対処法などの紹介は、私のワガママで外させていただきました。

 ASD への対処については、多くの方が期待する内容だと考えます。私も当初は構成として含めることも考えていました。しかし、対処法については効果に個人差があることが想定されます。科学的に妥当性の高い情報を伝えたいという思いで書いた本書の中で取り挙げることは、かえって誤解を招くことにつながりかねないと感じ、敢えて掲載しないという決断をしました。

 対処法に関する情報は、感覚過敏をもつASDのお子さんをもつ保護者の方々や、当事者自身がインターネット上で数多く発信しておられます。日々更新されるこれらの情報の中からご自身の状況に合うものを選択する方が良いでしょうし、そうした情報を選択する際のフィルターとなる知識として、本書が役に立つはずです。

 本書が多くの人に届き、ASD 者の感覚の特性が生じるメカニズムの理解を深めるとともに、一人として同じ感覚をもつ人は存在しないということの不思議さに魅力を感じる人がいることを願っています。共にこの分野の研究に真摯に取り組み、科学的な理解を前進させる研究をする若者たちが増えていくことが、翻って当事者やご家族、社会全体の幸福につながると信じています。


著者紹介

井手正和(いで・まさかず)
国立障害者リハビリテーションセンター研究所脳機能系障害研究部研究員。
立教大学大学院現代心理学研究科博士課程後期課程修了。博士(心理学)。国立障害者リハビリテーションセンター研究所脳機能系障害研究部流動研究員、日本学術振興会特別研究員PDなどを経て、現職。
専門は実験心理学、認知神経科学、リハビリテーション科学。2014年度よりASD者を対象とした知覚の研究を開始する。研究と並行してアウトリーチ活動を積極的に行い、特にASD者の感覚過敏についての科学的な理解の啓発に取り組む。
現在は協調運動の問題にも取り組み、MRIによる非侵襲脳機能計測手法を取り入れることでその神経基盤の解明を目指している。

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