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「言葉の小箱」私を支えるネガティブな言葉たち(朝比奈美知子:東洋大学教授)#私が安心した言葉

必ずしも優しい意味の言葉でなくとも、大切にしている言葉はないでしょうか。自分では考えてもみなかった人生の違う面に光を当ててくれた言葉に、今も支えられている気持ちになることはないでしょうか。フランス文学の研究者である朝比奈美知子先生に、ご自分の人生でめぐりあってきた忘れがたい言葉をもとに、お考えをお書きいただきました。

 「悲しみや苦しみの先にそれぞれの光がある」(「栄光の架橋」作詞・作曲:北川悠仁)、「I believe myself あたたかい光は/ まちがっちゃいない/ 歩いていこう」(「I believe」作詞:絢香・作曲:西尾芳彦)、「落ち込んで やる気ももう底ついて/ がんばれないときも/ きみを思い出すよ」(「何度でも」作詞:吉田美和・作曲:中村正人)…… 今流行っている歌には、挫折感や孤独を和らげ、前向きに生きようと励ます言葉が溢れている。こうした歌に慰められ勇気をもらった人は数知れないだろう。一方、そんな歌を耳にするたびに私は、それが私たちの生きる社会に充満する閉塞感や圧迫感の裏返しであることを思わずにいられない。得体のしれない不安や生きづらさの感覚の中で、慰めや応援を求めずにいられない人々がこの世の中に溢れていることを思い知らされるのである。

 ところで、私が日々の支えとしている言葉は、応援や慰謝のメッセージとは少し違う。私の心の中には、「言葉の小箱」とも呼ぶべき場所がある。そこには、さまざまな人と交わした会話や議論の中で、偶然―おそらく相手も気づかぬままに―私の耳に留まり、以後不思議に記憶に残っている言葉が入っている。言葉の主は必ずしも親しい人物とは限らないのだが、巡り合わせの中で出会った一片の言葉がいつのまにか私の中に残り、折に触れて記憶の表層に立ちのぼり、励ましとは異なる感覚で私を支えている。というのも、その小箱に入っているのは、しばしばネガティブなニュアンスを持つ言葉だからである。

朝比奈先生 挿入写真 小箱

「かわいそうにねえ」

 「言葉の小箱」に入ったはじめの言葉、つまり、自分を支える懐かしい他者の言葉として最初に意識されたのは、一見情けないこの言葉かもしれない。これは、私が大学の教員になって間もない頃、一人の先生から伺った話の中で耳に留めた言葉である。M先生(その先生の名である)はある日、大学で行われたある重要な試験に会場を間違えて到着した受験者に対応することになった。詳細の記憶はもはや失われているが、その試験では会場違いの受験は不可となっていた。はじめ職員が対応し、理を尽くして退出を求めたが、切羽つまった受験者は納得せず、その場に座りこんで抗議を始め、立ち去ろうとしない。困った職員は、当時そのキャンパスの業務一般の責任者であったM先生に助けを求めに行った。先生はその受験者の隣に座り、話をしばらく聞いてやり、そして「かわいそうにねえ」という言葉をかけられたというのだ。その後さらにしばらく話し少しずつ因果を含めたところ、頑迷だった受験者もしぶしぶ腰を上げ、退出することを受け入れたというのである。M先生の話を聞いた私は、自身の若い頃の一コマを思い出していた。ある友人から仕事や人間関係の悩みを聞かされた私は、相手に真摯に向き合うつもりで、問題の所在を指摘し助言を繰り出していた。すると件の友人はぽつりと言った。「教えを求めて話をしていたわけではない。」M先生がおっしゃったのはまさに、相手の話に耳を傾け、立場を共にし、受け止めることであった。M先生はドイツ文学を専門とし深い教養の持ち主であるが、それと同時に他者に対する深い寛容の精神と信念を貫く強い精神を併せ持つ方で、私自身幾度も貴重な指導をいただいたが、常に感じていたのは自分が受け止められている、という感覚であった。

 とはいえ、「かわいそうにねえ」はなかなかむずかしい言葉だ。ともすればそれは単なる憐憫、あるいは揶揄とさえ受け取られ、相手を硬化させかねない。しかし、M先生の「かわいそうにねえ」は、相手が心の底で認めていた誤りとそれに対する悔しさ、無念をわが物として感じ、受け止める慈愛を湛えた一言であったのだろう。それゆえ、相手も頑な心を開いたのだろう。他方その言葉は、無念さや憤りを受けとめると同時に、不幸な体験を対象化することへと相手を導くものでもあったのではないか。ほんのひとときの会話の中でおそらくM先生は、そのことを相手に暗黙のうちに伝え、自律した人間として行動するように導かれたのではないだろうか。その時以来、「かわいそうにねえ」は、M先生の人を包み込むような柔らかなアルトの声とともに私の心に刻まれた。失敗や不首尾に意気消沈した者と話すとき、自分自身が不本意な思い、悔しい思いをしたとき、いつも私はM先生のお声と「かわいそうにねえ」を思い出している。

朝比奈先生 挿入写真 なぐさめ

「人間みな独り」

 この言葉は、長いつきあいの友人が発した一言である。私はけっして友人が多いほうではない。日々の仕事に追われ、古くからの友人ともつい疎遠になりがちである。学生や仕事の同僚、同業者との関わりの中にあっても、時としてどうしようもない孤独感に苛まれることがある。密なネットワークで友人関係を保ち発展させている人を見ると羨ましさを覚えもするが、人付き合い自体が億劫になることもしばしばある。昨今話題になるいじめ、不登校や引きこもり、あるいは孤独死などに対して、他人事と思えない感覚を持つこともある。そんな人間関係の不安を訴えていた時であった。件の友人は静かに言った。「人間みな独り、人間みな野垂れ死にさ。」即座にその言葉を受け入れたわけではない。それは本当の孤独に陥ったことのない人間が高みから発した言葉であるようにも思え、―その友人は温厚な性格で常日頃から周囲の人々に慕われ、孤独とは無縁の人物であるようにも見えていた―相手に対して異議を述べ立てた記憶もある。しかしながら、その暗澹たる言葉は不思議に私の心に響いた。むしろ、温厚なその人物から出た言葉であるゆえ、心に残ったのかもしれない。「人間みな独り」は、実はあらゆる人間に突きつけられた真実だ。成功を収めていようが、多数の友人がいようが、究極的には人間は死を免れないのであるし、死に際しては、どのような人間も独りで立ち向かわねばならない。また、いかに優雅な人生を送っていようとも、死の瞬間の苦しみや試練は免れえないだろう。友人の言葉は厳しく、聴く者を絶望に陥れるものであったが、それを苦々しく受け止めながら、私は逆にある種の安堵を覚えてもいた。つまり、自分が背負っていると感じている孤独が、究極的にはあらゆる人間に普遍的なものなのだと考え、孤独であることや死に向かって日々を積み重ねる運命のようなものをほんの一瞬渋々受けとめてみることで、ある意味で孤独であることに対して感じていた引けめのようなものから少しばかり解放され、孤独でいびつな生を恥じずに生きられるような感覚を持ったのだった。

朝比奈先生 挿入写真 孤独

『悪の華』の毒

 そして今になって私は、その友人の言葉が、自分が読んできたフランスの文学作品の言葉のいくつかと不思議な形で響きあうのを感じている。その一つを挙げよう。十九世紀の詩人ボードレールによって書かれた『悪の華*』は、十九世紀半ばの首都パリに蔓延る貧困、病苦、腐死、醜悪、偽善などを描く、悪の繚乱ともいうべき詩集である。その「パリ情景」の章に収められた「小さな老婆たち」には、パリの薄暗い路地を過っていく貧しげな老婆の姿が描かれる。覚束ない足取りで歩く者に助けの手を差し伸べる代わりに無視や揶揄で応える冷酷な大都会の街路を、老婆は無言のままひたすら歩いてゆく。ボードレールの詩は、一般的な共感や人道主義とは無縁の詩である。彼はその老婆たちを「たがのゆるんだこの怪物たち」、「生きているさえ恥ずかしく、皺みしなびた影法師」、「永遠の世に入るべく熟した、人間の残骸」と呼ぶ。その描写の冷徹さは、残酷の粋に達しているが、実はボードレールは、哀れな老婆を高みから見物し揶揄しているわけではない。彼は老婆を「わが同族」、「同じ種族の脳髄たち」と呼ぶ。詩人は死を待つばかりの哀れな老婆に、自身を待つ死や老残の醜悪さを見ているのである。また彼は、同じ詩でみずからを「厳格な〈不運の女神〉の乳を吸った者」と呼ぶ。「〈不運の女神〉の乳を吸った」という表現には、資本主義が爛熟する第二帝政下の社会で取り残された者たちの怨念や、金銭の支配と文化の卑俗化の波に襲われ苦闘する文学者や芸術家の疎外感がこめられている。無様な姿をさらして都市の街路を過っていく老婆の姿は、理想の美の凝縮としての詩の探求を志しながら、醜悪な現実の中で生活苦に苛まれ不本意な格闘を繰り広げざるを得ない詩人の姿を象徴するものにほかならない。そればかりではない。ボードレールは『悪の華』の冒頭の詩で読者に「私の同類」、「私の兄弟」と呼びかけている。つまりボードレールは、老残や病苦や死、あるいは現実との齟齬がもたらす本源的な憂鬱や違和感を、あらゆる人間が背負う運命として私たちに突きつけているのだ。

 この詩をはじめて読んだ頃は、詩句そのものがもつ強烈なイメ―ジと毒々しい美しさに訳もわからず惹かれるばかりだった。ところがある年齢に達し、起伏が多いとは言えないまでも多少の経験を積んだ今、この詩の言葉と「人間みな独り、人間みな野垂れ死に」が、意味するところは必ずしも同じではないのだろうが、不思議に自分の心の中で響きあう瞬間がある。二つの言葉はいずれも取りつく島もない厳しさを湛え、救いや慰めを求めようとする心を砕き、人間を本源的な孤独の中に突き落とす。しかしながら同時に、この残酷な言葉を反芻するとき、あらゆる人間は等しくその運命を背負わされていると感じ、そのことにある種逆説的な慰謝と、生きることに対する獏たる覚悟のようなものをほんの一瞬であれ呼び覚まされるのである。

朝比奈先生 挿入写真 覚悟

 このようにして、「言葉の小箱」の言葉たちは、しばしばネガティブなニュアンスをまといながら、私の日常を支えている。言葉が何かを解決するというわけでもなく、一気に自分を変えてくれるわけでもない。また、私は未だ「かわいそうにねえ」を本当の意味の慰謝や他者の受けとめにつなげるほどの度量も包容力も持ち合わせず、「人間みな独り」を真に納得して受け入れる覚悟の域に達してもいない。これからも私は不本意な思いや孤独を抱え、迷いながら無様にじたばたしながら生きてゆくのだろう。しかし、「言葉の小箱」からふと立ち現れる一言は、無様さを受け入れて生き続けるための不思議な力を私に与えてくれるように思われるのである。

引用
*ボードレール『悪の華』については、読者にも一読していただければ、との思いから、以下の邦訳を使用させていただいた。
『ボードレール全詩集』阿部良雄訳、ちくま文庫、1998年.

執筆者プロフィール

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朝比奈美知子(あさひな・みちこ)
東洋大学教授。専門はフランス文学・フランス語。研究テーマは近代都市と文学的想像力、文学と放浪、文学と夢、狂気、幻想文学一般にも興味をもつ。著書に『はじめて学ぶフランス文学史』『フランス文化55のキーワード』(共編著・ミネルヴァ書房)訳書にジェール・ベルヌ『海底二万里(上)』『海底二万里(下)』(岩波文庫)などがある。



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