他者と共に一人になる ~ #哲学対話 による新しいつながりの経験~ (梶谷真司:東京大学教授)#つながれない社会のなかでこころのつながりを
哲学対話を通じ、他の人とともにいろんなことを考えてみたい。本音で語ってみたい。
きっと、あなたは梶谷先生の論考を読んだ後で思うはずです。
自分と他者を尊重しながら、自由に考えられる。「みんな違って、みんないい」そんな場の魅力、つながりが哲学対話にはあります。
「人とつながる」とは、どういうことなのか
「つながり」は大切だと言われる。人と会う。人と話す。一緒に何かをする。私たちは一人では生きていけない。いろんな人と一緒にいることで、私たちの人生は豊かになる。だからつながろうとする。だから人と一緒にいられないのはつらい。
家族と、友だちと、恋人と会えなくて寂しい。
そんな苦しさは、誰もが味わったことがあるだろう。
他方で人と関わるのは煩わしい、気をつかう。人間関係に悩む人は多い。体調を崩したり心を病んだりする。追い詰められて自殺する人さえいる。家族や友だち、恋人であっても、むしろそのような親密な間柄ほど、いったんこじれたら、これほど重く苦しいものはない。いっそ絶ってしまいたい。だから
人とはつながらなくてすむなら、つながらなくていい。
そんな思いをする人もいるだろう。
私たちの日常は、つながった状態と切れた状態の間を行き来している。それがいま、つながることが難しくなった。少なくとも今までと同じようにはいかなくなった。ウィルスという、それ自身は無垢の小さな存在のために、世界中で、人と会って話して一緒に何かをするという、これまで当たり前だったことができなくなっている。
仕事も勉強もままならない。人によっては収入が激減する。生活が行き詰まる。家にずっといることで精神的にも行き詰まる。人と身体的に近づかないというそれだけの条件で、人間の生活はここまで変わってしまう。
しかし、一緒にいられないからといって、つながれないわけではない。個人的なレベルでは、昔であれば手紙や電話があった。今ならオンラインで、顔を見ながら打ち合わせも飲み会もできる。そこでふと疑問に思う。
同じところに一緒にいてつながるのと、別々の離れたところにいてつながるのと、いったい何が違うのだろうか?
実際、オンラインでつながるのは、体ごと同じ場所にいるのとは違う。その人の気配、存在感、息づかいは、ただオンラインで会っても感じられない。場の一体感もない。隣の人と雑談やひそひそ話ができない。一緒にご飯を食べに行ったり飲みに行ったりもできない。
たしかにそうだ。だがそうことができないと、ちゃんとつながることにはならないのか。体を伴わないつながりは、何か大事なものが欠けているのか。そうなのかもしれない。
だとしたら、
オンラインのつながりは、本当のつながりではないから、早く元に戻ればそれでいいのか。
あるいは逆に、
人と一緒にいるのはつらいから、つながりなんかなくていいのか?
一緒にいるためにつながるか、一人でいるためにつながりを断つか、どちらかしかないのだろうか?
そこには「つながり」についての、ある種の固定観念があるように思われる。
一人でいることがつらいわけでもなく、つながっていることがつらいわけでもなく、つながっていても一人でいられる、そんなことができないだろうか。
そんなつながりの新しい可能性を考えてみたい。
それは、体ごと一緒にいるという今まで当たり前だったことができない今だからこそ、見つけられるかもしれない。
哲学対話という可能性
ここで手がかりにしたいのは、哲学対話という一種の話し合いである。哲学対話とは、10人から20人程度の人が一つの場所に集まって輪になって座り、一つの問いについて共に考えることである。独特のルールがあって、実践者によって異なるが、私は以下の8つをルールにしている。
これらのルールを守って話をすると、何が起きるのか?
(個々のルールの意味については拙著『考えるとはどういうことか――0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎)を参照)。
端的に言えば、考えることを通して自由になれるのだ。
逆に言えば、私たちの生活は思考の自由を奪うものに満ちている。
そもそも自由に考えるためには、自由にものが言えなければいけない。しかし普通の話し合いでは、他の人からどう思われるのかを気にしてしまう。
迷惑かもしれない。
馬鹿だと思われるかもしれない。
恥をかくかもしれない。
笑われるかもしれない。
怒られるかもしれない。
甘く見られるかもしれない
そんな不安に駆られる。もしくは、
よく思われたい。
賢いと思われたい。
スゴイ!とかカワイイ!とか言われたい。
そんな虚栄心もある。
だから自分が思っていることを率直に言うのではなく、他人に合わせて、あるいは反発してものを言う。そうやって発言が他の人に縛られているのに応じて、考えることも人に縛られる。
そもそも考えるためには、「問うこと」が必要である。しかし日常生活では、それもまた難しい。
詮索好きだと思われるかもしれない。
こんなことを聞いたら、バカだと思われるかもしれない。
相手に嫌な思いをさせるかもしれない。
しかも質問というのは、その人の不満や怒りの現われであることが多い。
教師は生徒に
「何で宿題をやってこなかったんだ?」
と聞き、上司は部下に
「何でこんな仕事もできないんだ?」
と聞く。
本当は理由なんて聞いていない。何か言っても、
「そんなのは言い訳だ!」
と却下されるだけ。そういう場合、問うことは、要するに、怒ることなのだ。
問うのも問われるのも危険であり、質問はしないに越したことはない。
人から突っ込まれないように気をつけよう。
人の話はテキトーにうなずいて聞き流すのがいい。
そう多くの人が思っている。
また普段だと、知識がないと話してはいけない。ちゃんと勉強してから話す。分からないのは、知識がないから、勉強していないから、怠慢だからだ。そう考える。
だから知識を披露して、アピールする。
私はちゃんと知ってる。
私は頑張ってる。
私はエライんだ!
まとまってもいないのに話すのもダメだ。
頭が悪いと思われるかもしれない。
意見をコロコロ変えるのもいけない。
「さっき言ってたことと違うじゃないか!」
と怒られる。下手をすれば、信用を失う。
「分かりません」
なんて言えば、バカにされるか、相手に気まずい思いをさせる。話が滞り、みんなに迷惑がかかる。
私たちが普段している話し合いは、そういうありとあらゆる配慮、不安に満ちている。
それが私たちを縛りつけ、委縮させる。考えること、それも自由に考えることは、かくも難しい。普通に生きているかぎり、ほとんど不可能に思えるほどだ。
しかし哲学対話は、そのルールによって、こうした諸々の束縛を解除し、私たちが自由に考える場を開いてくれる。
他の人と一緒にいながら、人のことを気にせず話し、互いに安心して問いかけられれば、そんなことも可能になる。
他の人と一緒に考えることで、自由になれるのだ。
ではこのように他の人と共に考えている時、自分と他者はどのような関係にあるのだろうか。
受け入れるのではなく、受け止める
私たちは普通、お互いに理解し合うこと、同意に至ること、共感することが大事だと思っている。だから相手との違いを減らし、できるだけ近づけばいいと思っている。
しかし相互理解も同意も共感も、時に苦しい。本当は分からないのに、馬鹿だと思われたくないから、分かったつもりになる。本当は違うのに、相手にどう思われるか不安で同意する。どこか違和感があるのに、自分も共感してほしくて相手に共感する。
でもそのために自分を曲げる。抑える。本当は受け入れられないのに、頑張って受け入れようとする。そこにもう自由はない。平穏もない。だとすれば、人と一緒にいるのは、結局つらくなってしまうのだろうか。つながることは、苦しいことでしかないのだろうか。
哲学対話では、相互理解も同意も共感もいらない。
人の話を聞いて、
よく分からない
同意できない
共感できない
そんなことも、もちろんある。
けれどもそれでお互いに否定的な態度はとらない。したがって拒否することもない。
その代わり、相手に問いかける。
「なぜそう思うのか」
と。
問いかければ、同意も共感もしないが、なぜそのように考えるのか納得はできる。納得すれば、
「そういう考え方もあるんだ」
と受け止められる。
いや、納得もできないかもしれない。それでもかまわない。そもそもお互いに理解する必要すらない。
「分からない」
それでいい。
受け入れられないから、理解できないから、拒むのでも避けるのでもない。関係を断つのでもない。そこにいて、お互いをただ受け止める。それはあきらめでも妥協でもない。
受け止めることは、相手を尊重することであり、なおかつ自分が自分でいられることでもある。
こうして理解からも同意からも共感からも解放されて、私たちはさらに自由に考えられる。しかも重要なのは、そこで私たちは一人でないということだ。
お互い気を遣うことなく、問いかけあい一緒に考える。
お互いの考えを明確にしたり、深めたりする。
自分だけでは気づかなかったことに気づき、考えられなかったことを考えられる。
哲学対話には、そのように“共に自由に考える”ことでもたらされる独特の“一体感”がある。
一人になれるから、他者とつながる
他方で哲学対話には、一体感とは別の重要な次元がある。哲学対話を取り入れているある学校で、
「哲学対話ってどんな時間?」
という質問に対して、
「孤独になれる時間」
と答えた生徒がいた。
これは哲学対話のきわめて重要な特徴を示している。
自分を人に合わせることも、人を自分に合わせることもなく共に考える。
そこでは自分の考えが他の人の言葉から触発され、喚起される。その言葉にハッとしたりドキッとしたり、予想もしない考えが浮かんだり、それまでの自分の考えがひっくり返ったりする。そうして自らの思考の波に身をゆだね、沈潜する。
そこでは理解も同意もしないばかりか、場合によっては、人の話など聞いていないかもしれない。ただひとり自分と向き合う。
それはある種の孤独であろう。しかもそこには独りぼっちのような寂しさはなく、むしろ満たされた静けさか、穏やかな楽しさがある。ときに興奮もあるかもしれない。
それはきっと誰とも共有できない、その人だけのものだ。それにもかかわらず、他の人と一緒に考えることで得られた体験だ。「他者と共にいながら一人になる」という独特の“孤独感”がそこにはある。
哲学対話の“一体感”は、おそらく体ごと一緒の場所にいないと感じにくいだろう。他の人の気配と存在感、表情と息遣いが感じられてはじめて得られる。オンラインでパソコンの画面上だけでは、それはどうしても伝わらない。
他方、自分と向き合い、自分の中に沈潜する中で感じる満たされた“孤独感”は、もちろん体を伴った対話でも感じられる。この一体感と孤独感は、けっして矛盾するものではなく、哲学対話ではごく自然に両方を体験する。
とはいえ、敏感な人、繊細な人、臆病な人にとっては、この一体感は必ずしも安心できるものではないかもしれない。他人の存在感は、多かれ少なかれ圧迫感がある。
オンライン上であれば、参加者が画面上ですべて同じ大きさになり、等しく存在感が薄くなる。そのほうが他の人を気にすることなく話し、考えられるかもしれない。
そこでは、同じ場所にいるような一体感はなくても、孤独感は残っているように思われる。「他者と共にいながら一人になる」というこの独特のつながりは、かならずしも体ごと場を共有していなくてもいいだろう。
むしろ物理的に離れていて、接続を切れば一人になれるほうが、この孤独感をより純粋に経験できるかもしれない。共にいることでもたらされた思考の空間は、人がいなくなって一人になっても、そこにある。他者はいわばその空間にい続けている。
このような経験をすることは、新しい関係性の可能性を開くかもしれない。
一緒にいるために、相手に近づくために、自分を抑えたり曲げたりするのではない。そうなれば似た者どうしとつながるしかない。
しかし、似ているから一緒にいるのではなく、異なるから一緒にいる意味がある。違っているからこそ、新しいものの見方に出会ったり、考えをより深めたりできる。自分と向き合い、自分に沈潜することができる。
そのとき私たちは、寂しいから他人に依存するのではなく、安心して一人になれるから、他者とつながり共に考えることができる。これは私たちの関係をよりしなやかで強いものにしてくれるにちがいない。
哲学対話は、このような新しい関係のあり方を、身をもって経験できる場なのである。
<執筆者プロフィール>
梶谷真司(かじたに・しんじ)
(photo by きょーいち)
東京大学大学院総合文化研究科教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専門は哲学、医療史、比較文化。著書に『シュミッツ現象学の根本問題~身体と感情からの思索』(京都大学学術出版会・2002年)、『考えるとはどういうことか~0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎・2018年)などがある。近年は、哲学対話を通して、学校教育、地域コミュニティなどで、「共に考える場」を作る活動を行い、そこからいろんな人が共同で思考を作り上げていく「共創哲学」という新しいジャンルを追求している。
※下記は現在は絶版