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つながれない社会のこれから(森 真一:追手門学院大学社会学部教授)

流行観測・知の在り方・多様性などをキーワードに研究をされている社会学の森真一先生にご寄稿いただきました。人とのつながりについて、先生が提示された今だからこそ考えてほしい新たな視点を、みなさんはどのように感じますか?

同一メンバーが同一時間に同一の場所に集まる意義とは

 新型コロナウィルス感染拡大のなか、人とできるだけ会わないことが推奨されるようになった今の社会、どのような影響があるか、どのようになっていくのだろうか。
 事態はまだ流動的で、今後どのような対策が打ち出され、人びとの行動がどのように変化するのかはわからないが、これまであたりまえとされてきたあることがらに疑問の目が向けられるだろう。

 「ある決まった時間、職場や教室のような同一の場所に集まることの意味はなんなのか?」

 この問いがおそらく浮上してくると思われるのだ(すでに浮上しているかもしれない)。

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 仕事も授業も、飲み会も、帰省さえもオンラインでおこなわれることが推奨される事態は史上初のことだろう。そして、多くの人が「職場(教室、居酒屋、実家)に行かなくても、けっこう仕事(授業、親睦)はできる」ことを実感しているのではないか。

 この実感とセットになって、「なぜわざわざ職場・教室に行かないといけないのか? しかも決まった時間に? 決められた時間・場所に行かないことで、なぜ処罰されなければならないのか?」という疑問を感じる人が増えても、不思議ではない。
 また、見かけ上、不登校児やひきこもりもいないことになる。だれも登校してはいけないし、みんながひきこもることを要請されているのだから。

 「テレ・ワークで在宅勤務する人はただのひきこもりではなく、ある企業・団体の正式なメンバーなのであって、仕事もせずにひきこもっている人と同じようにあつかうな」との反論はあることだろう。
 だが、もしかりに、今から50年前に、オンラインで授業し仕事もする世界が存在していたら、不登校とかひきこもりと呼ばれる人は存在しなかっただろう。不登校やひきこもりになるきっかけは、多くの場合、教室での授業や職場での勤務のように「決められたメンバーが決められた時間に決められた場所に集まる」ところにあると私は考えている。

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 そこでの経験(いじめ、いやがらせ、暴力、孤立、競争、失敗、恥、恐怖など)がなければ、不登校にもひきこもりにもならなかったのではないか。そして、「決められたメンバーが決められた時間に決められた場所に集まる」ことがあたりまえでなければ、つながる意欲を失うような経験もしなくてすんだことだろう。
 だから、不登校やひきこもりに苦しんできた人びとは、緊急事態宣言のもと、基本的にだれも外出してはいけない状況において、自らの不登校やひきこもりが目立たなくなった分、ちょっとした安堵感をもっているのではないか。
 一方で、「なんでもっと早くテレ・ワークやリモート授業が導入されなかったのか! もっと早く導入してくれていれば、あんなイヤな目に遭うこともなく、不登校やひきこもりになることもなかっただろうに!」と、怒りすら感じているのではないだろうか。
 学校嫌いで不登校気味だった私は、そんな想像をしてしまう。

 教育や仕事において「決められたメンバーが決められた時間に決められた場所に集まる」ことは絶対に必要なのだろうか? 必要だというなら、その理由はなんなのだろうか? ICTが活用できるという、かつてはなかった条件や設備が今は整っているのに、それでもそれが必要だという理由は正当な理由として成り立つのだろうか? そもそも、それは人のこころを犠牲にしてまで必要なことなのだろうか? ウィルスは、この問いを、現代日本人に突きつけているのではないか?

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感性とつながり

 このようにいうと、まるでつながり全部を否定しているかのように誤解する人が出てきそうだ。あるいは、ICTを使ったデジタルなつながりを称賛していると誤解する人も出てくるだろう。
 私自身はガラケーの利用者で、だからSNSは利用しないし、必要とも感じない。直接会って話すことのほうが好きだ。ICTを称賛するつもりなどない。だが、現在、ICTを使ってオンラインでの授業を実施している。ICTの技術と道具を使っての仕事が大学から求められ、その仕事を淡々とこなしている。

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 このような前代未聞なやり方で仕事をしていると、やはり、これまであまり意識してこなかったつながりについて思い返すことも増える。前節の考察もその一環だ。
 つながりの大切さについての論考は、おそらくこの『note』にもたくさん掲載されるだろう。こころの成長やコミュニケーション能力の育成、思いやり、協力などなど、つながり(とくに対面的なもの)にはどれぐらい重要な意味があるか、といったものが多くなるように予想する。
 こういった議論の前提には「つながりには意味がある」「つながりは役立つ」との思想があるように想像する。なんらかの望ましさの基準(つまり規範)を想定し、その基準に照らし合わせて「こういう対面的つながりは意味がある、有益である」と価値判断がなされる。

 そういう議論に意義がないなどというつもりはない。ただし、こういう議論ばかりだと、つながりについて観念的・イメージ的に善悪を判断することに、議論が偏りがちになる。
 議論のバランスをとるためにも、観念的・イメージ的に善悪を判断する以外の視点で、つながりを考えてみる。たとえば、感性によっておもしろい、楽しい、心地よいと感じるかどうかという視点はどうだろう。ある学生が報告している、つぎのエピソードをご覧いただきたい。

「道草」
 七月の始めの昼下がり、私は大学から家に帰る途中、地元の街を歩いていました。すごくほのぼのとした土地で山のふもとにある町です。私が裏道に入った時、そこにランドセルを背負った小学生の男の子が二人いました。二人はそれぞれ離れていました。手前にいる子(A君と名付けます)は昨日の雨によってできた水たまりにしゃがんでいました。水たまりにある水で自分のふくらはぎを洗っていました。そして少し離れて奥にいる子(B君と名付けます)もしゃがんで路肩に咲いている花を見ていました。私はこの状況を見た時、A君は何をしているんだろうと思いました。また二人とも無言だったので、二人は一緒に帰っているわけじゃないのかなと思いました。そして私がA君の横を通りすぎ、B君の横も通りすぎようとした時、A君がB君の所へ走っていきました。そしてA君はB君に向かって「ねぇ、〇〇君、まだ足にうんこついてる?」と真面目な顔で聞きました。するとB君は花からA君に目を移し、A君の足についている茶色の物体をみて真面目な顔で「うん、まだついているよ」と言い、A君は「そっか、わかった」と言って、水たまりの方へ走っていき、また足を洗い始めました。B君はまた花をじーっと見つめ始めました。私はこの二人の状況を見て二人の会話を聞いて笑いが止まらないとともに、いつまでも見ていたい状況だと思いました。

(出典:宮原浩二郎・藤阪新吾(2012)『社会美学への招待 ―感性による社会探求』(pp.122-123)ミネルヴァ書房

 このエピソードをレポートしている学生は、A君B君の様子や会話を、なんらかの規範を参照して、観念的に、その善さを判断しているわけではない。たまたまそこに居合わせて、たまたまふたりのやりとりを耳にして、笑いが止まらなくなり、いつまでもふたりをみていたい気分に襲われた。観念や概念以前の、感性的な経験なのである。とくにこの場合は、感性的な快(同上、p.311)の経験といえるだろう。

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 哲学は「真・善・美」をとりあつかう知であるとは、昔からいわれているが、「感性によって思わず笑顔になり、楽しい、こころよいと感じるかどうかという視点」とは「真・善」ではなく「美」を感じとろうとする視点を指す。

 「視点」といったが、それは比喩であって、視覚にかぎらず身体全体で、感性で、感じとろうとする姿勢と考えてもらえればよい。
 「道草」のような感性的経験は、いつでもどこでもできるものではないだろうが、特別で特殊なものでもない。こころに余裕があり、こころを開いていれば、感性的な快の経験はだれにでもありうる。

 けれども、そのこころの余裕もなければ、こころを閉ざしていることの方がわれわれには多いのではないか? 観念的に善悪を判断することばかりしているのではないか? 感性的経験を軽視し、経験がますます観念化してきているのではないか?
 たとえば飲食店で食事する場合、ある客は料理だけでなく従業員や他の客のふるまいを含めた店全体の雰囲気を肌で感じ、楽しむ(感性的な快の経験)。
 一方、SNSで話題になっている店に行列を作り、最初からSNSへの投稿を意図して消費する客は「この商品はこういうふうに撮影したら“いいね”がたくさんもらえるだろう」とか「みんなが支持する商品、みんながほしがる商品を自分も消費できる」といったことに関心を集中する。その時その場の雰囲気を感性的に味わうことなく、イメージや観念のうえで「いい経験をした」と満足する(観念的な快の経験)。

 観念的経験を重視する客が目指しているのは、「私を認めてくれ」という欲求、つまり承認欲求の充足だ。関心の中心は、他者の目に映ると想像される自己のイメージにある。「いいね」の数のランキングや勝ち負け、他者に与える自分の影響力(例としてインフルエンサー)から自己のイメージを読みとり、他者への嫉妬や羨望、優越感や劣等感をもつ。経験の観念化は結果として、人びとのあいだの競争、相互不信、権威との同一化や権威主義的心性、自己の優位性を確認するためのいじめなどをもたらす。多くの人びとに認められる自分は「勝者」であり「善」であり「優位」にあると思いこんでいるからだ。

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 感性的な快の経験では、いい雰囲気を味わわせてくれた店やそこで働く人びと、つまり他者をこそ認めてあげたくなり、この店の雰囲気を身近な他者にも経験してほしいと願う。他者が中心であり主役なのだ。このような「自己の脱中心化」(同上、p. 291)自体も心地よい経験となり、他者とのあいだに「われわれ」というつながりの感覚が生まれる。

 経験の観念化は、独りよがりで独断的な行為を生むこともある。
 「相模原障害者施設殺傷事件」の加害者である、施設の元職員は「意思疎通できない障害者は生産性がない」というような供述をしている(毎日新聞2019年12月8日付 東京朝刊)。この加害者は「意思疎通の可否」「生産性の有無」といった観念を通してしか介護の場を経験していなかったのではないか。だから自分の凶行をも「善」と思いこむことができたのではないか。
 一方で、植物状態の患者とも感性によって意思疎通しようとする看護師の経験や取り組みが報告されている(西村、2014;村上、2016)。病院や施設などには管理のための厳しいルールや制約、マニュアルが課せられている。そのような場で看護師たちは感性を通して、人間としての患者と意思疎通を図る工夫をしている。そして、ここでも「われわれ」というつながりの感覚が生まれているようだ。

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 人間の身体を介してしか生き延びることができないウィルスは、グローバル化のなか、人びとのさまざまな違いを越えて感染していった。身体的で感性的な快の経験にもとづく「われわれ」というつながりの感覚も、人びとのさまざまな差異を越えて、ウィルスに負けないぐらいの「感染力」があるかもしれない。そう期待させるものが、人間には普遍的に備わっているのではないか。それが「人間というあり方(humanity)」ではないだろうか? 
 経験が観念化することに加え、ウィルス感染回避のために身体的な距離をとることが求められる「つながれない社会のこれから」として、身体・感性・つながりの可能性が見直されるように思う。

【参考文献】
村上靖彦(2016)『仙人と妄想デートする ―看護の現象学と自由の哲学』人文書院
西村ユミ(2014)『看護師たちの現象学 ―協働実践の現場から』青土社

(執筆者プロフィール)

森 真一(もり・しんいち)
追手門学院大学社会学部教授。専門は理論社会学。世の中にある「当たり前」に対する鋭い視点や、「自己」を深く掘り下げる著書を多数出版。



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