壁を築くより、橋を架けよう ~不安を解消するための処方箋~(土井隆義:筑波大学人文社会系教授)#不安との向き合い方
感染症の問題は、不登校や自殺など、子どもの深刻な課題にどのような影響を与えたでしょうか。それを踏まえて更に考えなければならないことは何でしょうか。今の子どもの生きづらさについて、数多くの提言をされている土井隆義先生にお書きいただきました。
● 登校を再開した不登校生徒
今年の新学期は、コロナの感染拡大を防ぐために休校措置が長く実施されたため、多くの学校でネットを活用した遠隔授業が試みられました。そんな中で、青森市教育委員会は遠隔授業の詳細を一般に公表しています。その統計データによると、同市内の全中学生の約97%が遠隔授業に参加し、それまで不登校だった生徒もその約75%が遠隔授業に参加した模様です。
不登校の生徒たちが遠隔授業に参加できた理由を同市教育委員会が調べたところ、みんな登校しないので自分が登校しないことも引け目にならなかったという意見や、周囲の生徒の目を気にしなくてすむので気持ちが楽だったという意見が多く寄せられました。今日、不登校の理由で多数を占めるのは「友人関係をめぐる問題」ですから、この回答はほぼ想定内のものといえるでしょう。
じつは、ここで注目すべき点は、5月末に通常登校が再開された後の動向です。同市教育委員会によると、不登校生徒のじつに約93%が再び登校するようになったというのです。これは6月時点での統計ですから、その後の推移は分かりません。しかし、少なくもこの時期に不登校生徒の9割以上が登校しえたという事実は驚きでしょう。同市の遠隔授業は同時双方向型だったとのことですから、そこできめ細やかな指導がされた成果といえるかもしれません。
またそれと同時に、一斉休校によって不登校の生徒たちの負い目が軽減され、他の生徒と同じスタートラインに立てたという意識が、彼らの登校を後押しした面もあったのではないでしょうか。「自分だけじゃない、みんな同じじゃないか」と感じられ、孤立感が相対的に緩和されたとも考えられます。通常は、長期休暇中であっても生徒の多くは部活に参加したり、交友関係を育んだりしています。ところが今春は、ステイホームの要請でそれらの活動もすべて止まりました。このリセット効果は大きかったに違いありません。
それはうがった見方だろうと思われるかもしれませんので、次に別の統計も紹介してみたいと思います。
● 激減した今年春期の自殺率
今年の4月から6月にかけて、日本国内の自殺者数は大きく減少しました。3月の時点では、コロナ禍による経済難が拡大することが予想され、そのため自殺者数が急増するのではないかと危惧する向きもありました。しかし、現実にはむしろ逆の傾向を示したのです。日本の自殺者数は1990年代後半に急増後、10年少々高留まりを続け、現在は緩やかな減少傾向にあります。それを考慮しても今春の減少幅は際立って大きく、前々年や前年の約半数にまで減りました。
その理由はいくつか考えられるでしょう。ステイホームが要請される中で、職場や学校に行く機会が減って思い悩む人が少なくなったためかもしれません。あるいは家族と一緒に過ごす時間が増えて、その連帯感が強まったおかげかもしれません。実際、マスメディアではそのように報道されました。しかし、子どもたちの不登校が減った理由と同様の理屈で考えるなら、自殺者急増という予想の根拠とされた経済難が、皮肉なことに逆の効果を果たした可能性もあるように思われるのです。
過去の自殺統計を眺めると、どの年においても春先に自殺者数が増え、その後は緩やかに減少していきます。3月末の年度末決算の衝撃を引きずった結果と看做せなくもないでしょうが、自殺理由の圧倒的多数が健康問題であること、またその多さが5月いっぱい続くことを鑑みると、むしろ新年度を迎えて世間全体が活気づいてくることの影響が大きいと考えられます。職場でも学校でもフレッシュな人たちが目立ち、輝きを増す陽光の下で、浮き浮きとした気分が社会全体に漂う季節だからです。
世間全体が活気づいている時期に、健康問題にかぎらず、何か個人的事情で人生に躓いてしまった人たちは、そうではない時期よりも一段と不遇感を強めやすいものです。「みんな幸せそうなのに、なぜ自分だけが」と深く思い悩んでしまうからです。このような観点に立つなら、今春はコロナ禍によって社会全体が活気を失って鬱々としていたため、個別の事情で生きづらさを抱えた人たちの不遇感が例年よりも相対的に小さくなったと考えられます。おそらく「みんな同じだ、自分だけではない」と感じられていたのではないでしょうか。
● 反転した夏期以降の自殺率
再登校に至った不登校生徒の多さや自殺者数の大幅な減少は、コロナ禍の中で目にすることのできたわずかに明るい話題でした。しかし、その自殺者の減少傾向はすぐに止まり、今度は大幅な増加へと転じてしまいます。7~9月の自殺者は、それまでの減少傾向に反して、例年よりも逆に増えてしまったのです。その理由についてもいろいろな社会的背景が考えるでしょう。
一律に要請されたステイホームとは異なり、コロナ禍の実被害は一様ではありません。個々人の置かれた立場によって千差万別ですし、むしろこれまでの社会的格差が今後さらに拡大していくと予想されています。経済や健康に関わる格差にせよ、日々の人間関係をめぐる格差にせよ、社会が再び活気づき始めたことで、その動きから取り残された人たちは、むしろかつて以上に不遇感や疎外感を強めているのではないでしょうか。
しかし、自殺者が再び急増した理由は、それだけではないように思います。コロナ禍が続くなかで、ステイホームの後に強く要請されたのはソーシャル・ディスタンスです。その本来の含意は、飛沫による感染拡大を防ぐためのフィジカル・ディスタンスにありました。しかし、コロナ感染を恐怖するあまり、それはメンタル・ディスタンスとしての様相も呈しています。感染リスクを少しでも下げようと、あまり親密ではない相手との交流はなるべく回避し、また感染に対する不安のはけ口として、予防措置が疎かだと一方的に決めつけられた人たちや運悪く感染してしまった人たちを過剰に攻撃したり排斥したりする傾向が増しているように見受けられるからです。
しかし、このようにして広く緩やかなつながりに対する人びとの心理的距離が拡大していくと、狭く閉じた親密な人間関係の中で躓いてしまった場合に、その理由が何であれ、もうどこにも自分の居場所がないと感じてしまいがちになります。周囲の人たちとの関係がうまく回っている時には問題はないでしょうが、そこでいったん孤立してしまうと、もう立つ瀬がなくなってしまうのです。居場所の孤島化を招いているこのような社会の空気は、それが直接の原因とはいわないまでも、自殺者数を押し上げる一因となっているのではないでしょうか。
それだけではありません。このメンタル・ディスタンスの裏には、さらに根が深く深刻な問題も潜んでいるように思われます。
私たちは、自分の顔を自身でじかに見ることができません。鏡に映してはじめて確認することができます。それと同様に、自分がどんな人間なのかも、自分が一番よく知っているようでいて、じつは案外と分かっていないものです。むしろ自分の思い込みに縛られることのない客観的な自己像は、他者から受ける評価という鏡を通してはじめて把握できることが多いものです。自分では思いもしなかった評価を周囲から受けたことで、自分の知らない自分と出会えた経験をもつ人は少なからずいらっしゃるでしょう。
しかし、このときよく知った親密な相手からだけしか反応が得られないと、自分の知らない自分の姿に気づくことは困難になってしまいます。想定内の反応しか返ってこないからです。何らかの理由で人生に躓いてしまったとき、それだけが自分の姿などではなく、自分でも気づいていないもっと潜在的な可能性が自分にはあるのだと気づかせてくれるのは、むしろ緩やかなつながりのなかで意外な反応を返してくれる相手のはずです。メンタル・ディスタンスには、その貴重な他者を喪失させるという危険も秘められているように思うのです。
● 子どもの高い自殺率の意味
この数十年、子どもたちの生活満足度や幸福感は増す一方です。彼らを取り巻く社会環境が改善されているとは到底いえず、むしろ社会的格差も拡大していることを鑑みると、いったい何故だろうと疑問を抱きたくもなります。しかし、今年4月から6月にかけてのように社会の活気が失われていた時のほうが、子どもも大人も主観的な絶望感がかえって小さくなっていたことを踏まえると、私たちの不満感や剥奪感は、人生への期待水準が高い時のほうが膨れ上がっていくことに気づくでしょう。現状に対する認識とのギャップが大きく開いてしまうからです。
このような観点に立つなら、子どもたちを取り巻く社会環境が悪化しているにもかかわらず、彼らの生活満足度や幸福感が増しているのは、皮肉なことに彼らの期待水準が大幅に低下したことの裏返しといえはしないでしょうか。実際、子どもたちの意識調査の結果から類推すると、状況の悪化以上に期待水準の低下が激しく、そのため現状への満足度が相対的に上昇している様子がうかがえます。「分をわきまえる」という言葉もあるように、それはそれで良いことではないかと思われるかもしれません。しかし、生活満足度や幸福感と同時並行しつつ、上昇してきたものがもう一つあります。それは子どもたちの自殺率です。
先ほど触れたように、今夏以降の傾向は別として、ここ数年、日本の自殺者数はずっと減少傾向にありました。しかしその中で、子どもの自殺率だけはなかなか減少せず、高留まりの状態を続けてきました。生活満足度や幸福感は増しているというのに、いったい何故でしょうか。じつはその背景にあるものこそ、子どもたちの世界で進んでいるメンタル・ディスタンスではないでしょうか。昨今、子どもたちの人間関係は、ごく狭いところで閉じたものになりがちな傾向を強めているように見受けられるからです。
コロナ禍の影響で今後の動向については予想もつきませんが、少なくとも現在までのところの日本では、人間関係をめぐる既成の社会秩序が緩やかになり、その流動性が増してきました。子どもたちの日常についていえば、学校のクラスとか部活とかといった組織や制度によって人間関係が規定される比重が低まり、個々人の好みによって自由に人間関係を営める比重が高まってきました。このような人間関係の流動性の高まりは、一方ではその自由度を上昇させましたが、他方ではその不安感も高じさせました。組織や制度から拘束を受けることなく、付き合う相手を自分で自由に選べるという事情は、相手側もまったく同じだからです。
そのため昨今の子どもたちは、この不安を少しでも減じようと、流動化の趨勢とは逆に人間関係を狭く固く閉じようとしています。これほどネット環境が発達した中で意外なことのように思われるかもしれませんが、調査データを見るかぎり、子どもたちが新しい友人と出会う機会はむしろ減少しているのです。しかしこの傾向は、皮肉なことに彼らの不安を逆に煽る結果になっています。先ほど説明したように、居場所がそこにしかなくなってしまうからです。また、自己像を矮小化することにもつながっています。意外な反応を返してくれる他者がいなくなってしまうからです。
このように見てくると、今日の不安を解消するために有効な方策は、けっして壁を設けて関係を閉じることではないことに気づくでしょう。むしろ逆に、橋を架けて緩やかに開かれたつながりを確保することのほうが、はるかにその効果は大きいことに気づくはずです。同質な相手だけと強い絆を結んで目先の安心を確保しえても、これからの人生でどこに躓くか分からない以上、その基盤は脆く崩れやすいともいえます。むしろ、異質な相手と広く緩やかにつながり、多様な居場所と多様な自己評価を獲得していくほうが、先行きの見えない人生航路のセーフティネットとして重要なことでしょう。それは子どもたちの世界にかぎりません。私たち大人にとっても、不安を解消するための処方箋としていま真に必要とされているのは、この橋を架ける精神であるように思います。
執筆者プロフィール
土井隆義(どい・たかよし)
1960年、山口県生まれ。大阪大学大学院博士後期課程中退。現在、筑波大学人文社会系教授。社会学専攻(社会病理学・逸脱行動論・犯罪社会学)。今日の子どもたちが抱えている生きづらさの内実と、その社会的背景について、青少年犯罪などの病理現象を糸口に、人間関係論の観点から考察を進めている。
著書に、『「宿命」を生きる若者たち』(2019年)、『つながりを煽られる子どもたち』(2014)、『少年犯罪<減少>のパラドクス』(2012年)、『キャラ化する/される子どもたち』(2009年)、『「個性」を煽られる子どもたち』(2004年)(以上、岩波書店)、『人間失格?』(2010年/日本図書センター)、『友だち地獄』(2008年/筑摩書房)、『〈非行少年〉の消滅』(2003年/信山社出版)などがある。
筑波大学研究者情報:https://trios.tsukuba.ac.jp/researcher/0000000261