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生活習慣からこころを変える(広島大学名誉教授:町田宗鳳) #心機一転こころの整理

無自覚な生活習慣の悪影響

 現代人が心落ち着かせることは、並大抵のことではない。何しろ一日中、あらゆる刺激が我々の五感に襲いかかっている。テレビやラジオをかけっ放しにしている家庭もよく見かけるが、あれは目に見えない毒性物質を生活空間に垂れ流しているようなものだ。
 決して私がテレビ嫌いというわけではないが、劣悪な番組が多すぎる。タレントたちの無意味なギャグと、それに過剰反応する出演者たちの笑い声に加えて、途切れることのないCMの大音量にさらされるだけで、私の心は錯乱する。大半の現代人は、あらゆる刺激に対して不感症になり、いちいち私のように気にも止めていないはずだ。
 しかし、それが大問題なのだ。そこから放たれる様々な刺激が、自分の肉体と精神に対して四六時中、攻撃をしかけているようなものだ。さらにパソコンや携帯からも、大量の情報が洪水のように耳目に飛び込んでくる。ましてやゲームなどに過度にはまってしまえば、高速で動く映像を必死で追いかけ、しかも膨大な時間を費やすことになる。それは一種の依存であり、心の静寂など、もはや架空の話だ。
 私は青春時代の二十年間、京都の禅道場で過ごした。電化製品も冷暖房もない生活だった。夜になっても、わずかな電球が灯されるぐらいだったから、動物のように夜目がきいた。その代わり、町に出て、室内の隅々まで煌々と蛍光灯が灯されている建物に入ると、あたかも電気の粒子が空気中に飛びかっているように感じ、目が開けられなくなったりもした。
 道場内では調度品など皆無だったので、モノがないことが当たり前だった。だから、店頭に商品が山積みされている商店街の中を托鉢するのは苦痛だった。とくにアーケード付きのモールなどでは、密室空間で「モノの気」に酔うのか、吐き気を覚えることもあった。
 もちろん、そんな私も渡米を機に、一般市民の生活を営むようになり、次第にそのようなアレルギー症状を見せることもなくなった。私の感覚が鈍化したのである。つまり心を静めるとか、整理するとか言ってみたところで、近代文明の恩恵にどっぷり浸っている私たちは、自覚症状のないままこころの生活習慣に悪影響を及ぼしているようなものだ。ちょうどそれは、食べすぎ飲み過ぎの食生活を続け、ろくに運動もしなければ、ほぼ確実に健康を害するようになるのと同じメカニズムだ。

必要な遮断療法

 では、こころの健康を害さないよう、それを予防したり、症状を改善するには、どうすれば良いのか。そこに今回の「心機一転 こころの整理」に対する大きなヒントがある。
 私は一日一食の生活を続けている。別に禁欲主義者というわけではなく、それがいちばん快適なライフスタイルだからだ。その背景には、十六時間以上の絶食を続けることによって細胞内のミトコンドリアが共食いを始め、老化した細胞が再生されるというオートファジーの考え方がある(1)。自然に体重も減ったし、運動しても体が軽い。おまけに食費の節約だけでなく、時間的にも大幅な節約となっている。
 私が二十年間にわたって、週末を利用した「ありがとう断食」を開催しているのも、プチ断食が心身の健康に最良の健康法であることを知っているからだ。国際的に権威ある医学雑誌にも、そういった内容の研究論文が幾度となく発表されている(2)。
 要するに、肉体の健康を維持するには、食べ物の遮断療法が好ましいわけだ。となれば、こころの健康を維持するにも、外部からの情報を遮断するのが、いちばんだ。
 まず家庭にあるテレビやラジオの利用は、必要最小限に留める。そしてパソコンや携帯も、どうしても必要な事柄だけに使用すべきであり、ときどきは意識的にそれらを使用しない時間を設けるのが望ましい。
 よく話題に上がる断捨離も、自分を取り囲んでいるモノからの遮断療法といえる。当たり前にそこにある家具や衣類も思い切って捨てるわけだから、それなりの覚悟がいる。
 本気でこころの整理をしたければ、当たり前の習慣から一歩踏み出す勇気が欠かせない。「やるかやらないか」は、自分の覚悟次第だ。今のままでいいというのなら、それも本人の選択だ。

非日常空間に移動する

 「遮断療法など、到底できない」というのなら、家庭や職場という日常空間から離れ、自分を非日常空間に移動させればいいのだ。なるべく文明の利器から自分を遠ざけるためには、自然環境が望ましい。現に定期的に山をトレッキングするような習慣を持っている人たちには、健康で快活な人が多い。それが人間本来の元気と無邪気さなのだろう。
 旅行も自分を非日常空間に連れて行ってくれるが、ガイド付きのツアーなどは意外性が少ないので、こころに与える影響は小さいだろう。大勢の人間が群がる観光地も、同様な理由で避けたほうがいい。なるべく人の行かない辺鄙な場所を選び、移動手段も不便なほうが、旅行は錯綜する人間関係からの遮断療法となって、こころのセラピーとなる。
 時々、ツアーグループの中に若者がぞろぞろとガイドの後ろを歩いていくのを見ると、私は悲しくなる。自由で開放的で創造的な未来を築きたければ、旅行ぐらいは自分で考え、自分一人で行けといいたくなる。思考停止、没個性の若者が一人増えるたびに、亡国の危機は高まるというのが、私の持論だ。

「メンタルなことはフィジカルに」

 私のモットーの一つが、「メンタルなことはフィジカルに」だ。目に見えないこころを変えたければ、目に見える肉体を変えるほうが、確実で手っ取り早い。つまり、こころを整理したければ、スポーツを楽しむのがいい。それも毎週のように反復練習しなければ、こころに望ましい変化は起きないだろう。多忙を理由に、そんなことは実行不可能だという弁明するのなら、こころの堂々巡りは止まらない。忙しいからこそ、スポーツに没頭する時間が貴重なのだ。その気にさえなれば、日本には様々なスポーツに親しめる環境が比較的整っている。何を選ぶかは、個人の嗜好に従えばよい。
 私はアメリカに三十代半ばで留学してから、頻繁に泳ぐようになった。むこうの大学には、たいてい屋内プールが完備されていたので自然にそうなったのだが、四十歳あたりから、ほぼ毎日、ランチタイムにクロールで一キロ泳ぐようになった。授業や研究のために時間に追われていたが、水泳だけはなるべく欠かさないようにしていた。
 その習慣が七十二歳になった今も、ほぼ続いている。現在は市営の屋内プールを利用しているが、以前は公共のものがなかったので、スポーツクラブのプールに通っていた。私にとって、水泳は心身の健康を維持する上で不可欠の日課だ。

瞑想という選択肢

 こころの落ち着かない現代人にとって、瞑想も好ましい。ただし、禅寺に行って、足の痛いのを我慢して、禅を組んだところで、こころの整理がつくとは限らない。長い歴史をもつ坐禅は、特殊な瞑想法なので、集中度を高めるためには修練が必要となる。幸い、最近はマインドフルネスなど、現代人向けの瞑想が登場してきたので、瞑想の選択肢が増えている。
 私自身は声の瞑想法「ありがとう禅」を開発し、長年、その指導をしてきた。人間の声は、その使い方次第では百薬の長となる。各自がもつ本来の声(authentic voice)を朗々と発声すれば、おのずと倍音効果が生まれ、心身が整ってくる。コロナ以前は海外各地でも「ありがとう禅」を指導してきたが、様々な人に効果があると実感している。
 ただし、瞑想といっても狭義にとらえる必要はなく、絵を描く、ダンスを踊る、歌を歌うなどして快適時間となるなら、すべて瞑想と理解してよい。
 最後に、こころの整理は長い目でみれば、健康寿命に貢献することであり、長い人生をいつまでも若々しく、そして楽しく謳歌したければ、今日からでも大いに実践するべきだろう。

【文献】

(1)吉森 保 『生命を守るしくみ オートファジー―老化、寿命、病気を左右する精巧なメカニズム』講談社、2022 
(2)Rafael de Cabo, Ph.D., and Mark P. Mattson, Ph.D.2019 Effects of Intermittent Fasting on Health, Aging, and Disease”in New England Journal of Medicine.

【著者プロフィ―ル】

町田宗鳳(まちだ・そうほう)
1950年京都市生まれ。幼少のおり、キリスト教会に通う時期もあったが、14歳のおり、家出をして仏門に入る。以来20年間、京都の臨済宗大徳寺で修行。34歳のとき寺を離れ、渡米。のちハーバード大学で神学修士号およびペンシルバニア大学で哲学博士号を得る。
プリンストン大学助教授、国立シンガポール大学准教授、東京外国語大学教授、国際教養大学客員教授、広島大学大学院総合科学研究科教授を経て、現職。研究分野は比較宗教学、比較文明論、生命倫理学。
『人類は「宗教」に勝てるか』、『無意識との対話』、『Religion, War, and Ethics』(Cambridge University Press)など、日英著書五十冊余。NHK『こころの時代』・『ラジオ深夜便』・『こころをよむ』などに連続出演。日経新聞・朝日新聞・読売新聞にもエッセイを連載。日本・米国・ヨーロッパなどで倍音効果を利用した瞑想法「ありがとう禅」を実施すると同時に、御殿場高原「ありがとう寺」にて、心理療法としての「炎の瞑想」を実践。大学退職後、比叡山で修行、天台宗大阿闍梨の位を得る。

著書


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