時には深いため息を(安田 登:能楽師(ワキ方 下掛宝生流)#つながれない社会のなかでこころのつながりを
外に出ないことが心身に与える影響の大きさに、初めて気がついた人も多かったのではないでしょうか。日本の心を演じ、伝え続けてきた能楽師の安田登先生に、日本人の心と体の関連についての特徴と、これからの暮らしの中で役立つ実践についてお考えいただきました。
深呼吸のすすめ
2か月ほど続いた自粛生活もようやく終わりに近づいています。この2か月間、家で静かにしていたという人もいたでしょうし、ふつうに通勤・通学をしていた人もいたでしょう。
私の職業は能楽師ですが、3月以降の舞台や講演、ワークショップがほぼゼロになりました。7月まではこれが続いているので、なんと4か月間、無職です。
収入ということ考えるとつらいのですが、これはこれで案外楽しいし、気楽です。
街を歩いても人にぶつかることはないし、電車に乗ってもすいている。もう、以前のような生活に戻れないかもしれないと、いまはむしろそれが心配です。
さて、自粛期間の蟄居生活。自分が思っているよりも、からだに負担にかかっていると思います。一番こわいのは、それに気づかないこと。
久しぶりに街を歩いてみると、自粛から開放されて「明るい顔でみんなハッピー!」と思いきや、機嫌が悪い人が案外多い。ちょっとぶつかるだけで喧嘩でも起きそうな気配です。
これは、からだの緊張がこころにも影響を与えているのでしょう。
そこで、まずお勧めしたいのは深呼吸です。
「なんだ深呼吸か」とバカにしないでください。私たちは、思ったよりも深呼吸ができていないのです。
もののあはれ
日本人は、深呼吸が得意な民族でした。しかし、日本人が得意だった深呼吸は明治以降なくなってしまいました。
『朧月夜(おぼろづきよ)』(作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一)という唱歌があります。なにかもの悲しさを感じる唱歌です。歌詞を見てみましょう。歌を知っている方は、ぜひ歌ってみてください。
菜の花畠(はなばたけ)に 入り日薄れ
見わたす山の端(は) 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月(ゆうづき)かかりて におい淡(あわ)し
何度か歌っていると、この歌詞の中に感情を表現する言葉がひとつも入っていないことに気づきます。風景だけが歌われているのです。
それなのに、なにかもの悲しさを感じる。
それは、私たち日本人は、風景の中に情緒を感じることができるからです。
江戸時代の国学者、本居宣長は、それを「もののあはれ」と名づけました。
もののあはれの「もの」は物質ではありません。「もの思い」の「もの」であり、「ものの怪」の「もの」です。「それだ!」と指摘はできないけれども、なんとなく感じる、抽象的ななにか、それが日本の古語の「もの」です。
そして、「あはれ」とは「ああ」というため息からできた言葉です。
ある景色に接する。すると、なぜか知らないけれども感動し、思わず「ああ」というため息が出る。それが「もののあはれ」です。
「情緒」という言葉自体が「感情」の「緒(いとぐち)」という意味です。
たとえば春の桜、たとえば秋の月、あるいは虫の音(ね)。そんな風景の中にはさまざまな感情の糸口があり、そこに触れたときにその感情が溢れ出してくる。それが「情緒」であり、「もののあはれ」です。
ため息の力
昔の和歌にこういうのがあります。
あはれてふ(ちょう) ことだになくは なにをかは
恋の乱れの つかねをにせむ
(読人知らず『古今和歌集』)
自分の恋心が乱れに乱れて空中に四散してしまいそうになる。それを留めておけるのは「あはれ」だけ、という歌です。
中世の歌には、真空状態の空一面に自分の恋が充ち溢れているという和歌もあります。※
人の心が、いまよりもずっと純朴だったころ、あまりに激しい恋をすると、空中に心が四散してしまうという感覚があったのですね。それをここに留めておくことができるのは「あはれ」、すなわち「ああ」というため息だけなのです。
あれ?でも、いまの私たちの「ため息」、あまり深くありませんね。
「ちょっとため息をしてみてください」というと、多くの人が「あぁ」と軽い息をします。それは本来、「ため息」ではありません。
「ため息」とは文字通り、「深く溜めて、長く吐き出す息」をいいます。
現代人のため息は、溜まってもいないし、長くもない。いや、ため息だけではありません。いつの間にか、日本人の呼吸は浅くなってしまっています。しかも「こういうときには深呼吸がいいです」といわれるような事態に直面すると、深呼吸すらできないことも多い。
そこでまずは日本風の深呼吸についておさらいしておきましょう。
※注)なぐさめし月にも果ては音をぞ泣く 恋やむなしき空にみつらむ
(顕昭『続古今和歌集』)
日本式の深呼吸とは
「深呼吸をしてください」
そういうと、ほとんどの人はまず息を吸います。そして吐きます。
しかし「呼吸」という語をよく見てください。
「呼」+「吸」
本来は「吐く(呼)」→「吸う」が正しい順番です。
昔の日本人に「深呼吸をしてください」と言ったら、この順番、すなわち「吐く(呼)→吸う」をしたでしょう。
いま私たちがしている「吸う→吐く」という呼吸法は、明治時代に輸入されたもの、軍隊教育をベースとする学校教育によって学んだ西洋式の呼吸法です。これを子どもの頃からずっとやり続けているために、本来の日本式の深い呼吸を忘れてしまっています。
「息」を、ギリシャ語由来の英語では「スピリット(spirit)」といいます。ギリシャ語では「プネウマ(πνεῦμα)」です。
「息を吸う」という意味の「インスパイア―(inspire)」には「元気を与える」という意味があります。それに対して「息を吐く」という意味の「エクスパイイアー(expire)」は「死ぬ」です。
すなわち西洋においては元気になるとは「息を吸う」ことであり、「息を吐く」ことは死を意味していました。
それに対して日本では死ぬことを「息を引き取る」といいます。そして産まれた子どもは産声を上げます。すなわち「息を吸う」ことは死であり、「息を吐く」ことが生なのです。それが日本人の身に着いた身体感覚であり、それを忘れている私たちのどこかにもその感覚が残っています。
深呼吸だけではありません。「気をつけ」の姿勢や、みんなが同じ調子に歩く「行進」など、学校で身に付けた西洋式の身体作法は、だぶだぶやキツキツの服を着せられたようなもので、日本人の身体や精神には無理があるものが多い。そのためか、ふだんの生活でからだやこころに違和感を持つ人も多くいます。
では実践を
さて、ここで一度、この文章を読むのをやめて、深呼吸をしてみましょう。
1)まず、ゆっくりと吐きます。口から吐くのがいいでしょう。「もう、全部吐き出したかな」と思ったら、力を入れて、もうひと息、吐きます。
2)全部吐いたら、口を閉じて、鼻から息を入れます。吸おうとする必要はありません。自然に入るのに任せて、すっと瞬間的に吸います。鼻がつまっている人は、口から吸ってもかまいません。
3)また、ゆっくりと息を吐いていきます。
4)これを繰り返します。
吐くときには1分以上かけてゆっくり吐くようにしましょう。最初は難しいかもしれませんが、慣れてくるとできるようになります。
また、息を吸う時はお腹に入れるようにします。これも最初は難しいかもしれませんが、意識的にお腹を膨らませるようにすると、いつの間にかできるようになります。
最初は10回くらいを目安にします。一日何回などと決める必要はありません。気づいたときにするといいでしょう。怒りや悲しみを感じたときや、あるいは「いまはちょっと気が立っているな」と感じたときにするのもいいでしょう。
数息観
慣れてきたら、この呼吸を応用して「数息観(すそくかん)」もしてみましょう。数息観は禅の呼吸法ですが、私たちはそんなに難しく考えずに、ただ「呼吸を数える」ということだけをします。
1)息を吐くときに心の中で「ひとー」と唱え、吸うときに「つ」と唱えます。
2)二度目は「ふたー(吐く)」、「つ(吸う)」です。
3)このようにして10回行います。
これに慣れたら、逆順もしてみます。
最初は10から1まで数えながら呼吸をします。さらに50から1まで、あるいは100から1までもやってみましょう。
夜、横になったときに100から逆順の数息観をすると、最後までいかずに寝落ちすることが多いです(笑)。
ストロー呼吸
さて、「緊張すると、どうしても深呼吸ができない」という方がいます。そういう方は「ストロー呼吸法」を練習してみてください。
正直にいえば「ストロー呼吸法」などというほどの大げさなものではなく、とても簡単です。
呼吸の仕方は「吐く→吸う」です。そして息を吐くときにストローを使い、吸うときにはストローを外して行う、これだけです。そして、これも慣れたらストローを使わず、ストローをくわえたような口の形にして行います。
これは強制的な深呼吸が自然にできる呼吸法です。
海に潜る海女さんが、海が上がったときに口笛のような音を出して呼吸をします。これがストロー呼吸です。また、全力疾走をしたあと、口を開いて「はー、はー」と息をしても、息はなかなか戻りません。そのときも、口をとがらせて「ふー、ふー」と吐くと、呼吸が戻るものです。これもストロー呼吸です。
ストロー呼吸法は、一日5分の練習をするようにしてみてください。やってみるとわかりますが、5分は案外長いものです。これを1週間続けると、多くの方はどんな状況でも深呼吸ができるようになります。むろん、人によって違いがありますので、10日、あるいは一か月かかる方もいるでしょう。
適当にする
あ、そうそう。呼吸の練習をするときに、ひとつ大事なことがあります。
それは「適当にする」ということです。一生懸命やってはいけません。「必ず毎日しよう」などとも思わないでください。
「忘れたら忘れたでいい」
「思い出したらやってみよう」
そんなつもりですることが大切です。
だって一生懸命にすると、それだけで緊張するでしょ。意味がない。
おまけ
平安時代末期の西行法師は、神域の神々しさに…
なにごとのおはしますかは知らねども
かたじけなさに涙こぼるる
…と詠いました※。
具体的に「なにがある」、「誰がいる」とはわからない。しかし、その神々しさに自然に涙が溢れてくるのです。
それも「もののあはれ」です。
また、先ほど見た「朧月夜」の歌詞。2番も見てみましょう。
里わの火影も 森の色も
田中の小路をたどる人も
蛙のなくねも かねの音も
さながら霞める 朧月夜
すごいでしょ。火の影(光)も森の色も、そして歩いている人も、さらには虫の声や鐘の音までもが霞むのです。ふつう音を霞むとは言いませんよね。昔の日本人は、五感は分離していず、まるで共感覚のように入り混じっていたのです。
平安末期の歌人、藤原定家や、江戸時代の俳人、松尾芭蕉の作品の中にも共感的なものが多くありますが、そろそろ紙幅が尽きましたので、このくらいで~。
※注)これは伝・西行作で、その確証はありません。
(執筆者プロフィール)
安田 登(やすだ・のぼる)
能楽師(ワキ方 下掛宝生流)。
能楽師のワキ方として活躍するかたわら、『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催。 著書に『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』、シリーズ・コーヒーと一冊『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)、 『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)など多数。