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A. R. ルリヤ(著)松野 豊(訳)『新装版 人間の脳と心理過程』解題(國分 充:東京学芸大学長/平田正吾:千葉大学教育学部准教授)

『人間の脳と心理過程』は1976年に初版が刊行されました。このたび、この名著が45年の時を経て、装い新たに出版されました。今回は、東京学芸大学長である國分 充先生、千葉大学教育学部准教授である平田正吾先生に、解題としてご解説いただきました。

■ 神経に心理なんか、、、

 「“心”というのをみな“生”に直してくるんだよなぁ、神経に心理なんかあるかっていうことなんだろうけど…」、これは、今から40数年前、われわれのひとり(國分)が学生だった時、本書の訳者である東北大学名誉教授松野 豊氏より、授業中に聞いた言葉である。出版社に頼まれた原稿で神経心理学のことを書いたところ、送られてきた校正刷りにはすでに出版社の手が入っていて、神経“心”理学と書いたところはみな神経“生”理学となおされていたことを苦笑しながら言われているのであった。

 神経に心理なんかあるかという時代から、半世紀近く経ち、神経心理学という言葉は今や人口に膾炙し、それを冠する書物も随分と見られるようになった。そうした現在、改めてこの領域の古典というべき本訳書の新装版が出版されることは、われわれ松野門下にとってはもちろん、斯学にとっても、まことに喜ばしく、意義あることと思う。

 本書が出た当時は(1976年)、大橋博司氏の名著“臨床脳病理学”(1965年)こそあったものの(また、秋元波留夫氏の日本の神経心理学にとって記念碑的なモノグラフ“失行症”(1935年、1976年復刊)もあったが)、日本語の神経心理学関連書は、ほとんどなかった。ルリヤにしても、欠陥学や発達心理学の翻訳は知られていたものの(“精神薄弱児”(三一書房、松野・山口ら訳、1962年)、“言語と精神発達”(明治図書、松野・関口訳、1969年))、神経心理学者としての研究の翻訳はこれが初めてであった。教科書的構成を有する“神経心理学の基礎”が、鹿島晴雄氏の訳で出るのは、本書の出版から2年後(1978年)である。

■ 本書の内容と意義

 本書は、2部構成で、過半はルリヤの著書“人間の脳と心理諸過程”から取られた論文であるが、その他の成書、雑誌からも取られている。第Ⅰ部は神経心理学序説というべきものと訳者は記しており、第Ⅱ部は失語症患者の言語障害に関する神経心理学的研究である。

 第Ⅰ部には、神経心理学の意義やルリヤの説くダイナミックなシステム的機能局在にかかる部分の他、前頭葉の機能がよくわからない時から、重要な脳構造として位置づけてきた「前頭葉の神経心理学者」ルリヤの考え方がよくわかる2つの章(V及びⅥ章)が収められている。ルリヤは、神経心理学の現代的テーマである実行機能の源流のひとりとされているが、それは彼が重視する前頭葉における行動調整の機能や、言語の行動調整という考え方にある。特に、言語の「理解」と簡単に言われていたことに、行動調整という、単純な「理解」に尽きない意味を付したのはルリヤであり、そのことが記されているこれらの章は、古典としての内容をもつ章となっている。また近年、実行機能の発達を援助する方法として、「心の道具」カリキュラムが国際的にも注目されているが、この支援方法は、この第Ⅰ部でもその詳細が述べられているヴィゴツキーやルリヤの高次心理機能の捉え方を基礎としている。このことも注目されてよいことのひとつと思われる。

 第Ⅱ部には、当時まさに新しい科学として黎明期にあった神経言語学の現状についての章や、ルリヤが提唱した力動失語症における言語障害の特徴に関わる一連の章(Ⅶ~Ⅹ章)が収められている。現在でも力動失語症は、超皮質性失語の一種として重要視されており、これらの章もまた古典としての内容をもっている。さらに、これらの章では力動失語症で認められる言語発話に必要な文図式(フレーズの線形図式)の障害が、外的な手がかりを提示することにより代償されうることも述べられており、高次心理機能のリハビリテーションについての基本原則を示す原型として読むことができる。

 最後には、22頁にも及ぶ充実した解説が、訳者によって付されている。そこでは、ルリヤの失語症分類と理論が整理されて示され、ルリヤの失語症理論に影響されたヤコブソンの言語理論も対比してまとめられている。さらには、ルリヤの神経心理学の真骨頂というべき同時総合と継次総合という2種の大脳皮質の活動に関する理論と失語症理論との関係も論及されている。この解説は、これだけ読んでもきわめて有用なルリヤ(そして、ヤコブソン)学説入門となっており、現代的価値を十分に有している。

 訳文はわかりやすく、時に固い感じのところもあるが、それは原文のせいとも思え、じっくり読めばわかる程度のものである。われわれ二人ともロシア語が読めないので何とも言えないのではあるが、ルリヤは、実証科学たる医学的訓練を受けたせいか、また、後述する精神分析学者として活躍していた時から感じられる文才のせいか、論旨明快で、もったいぶったところがない文章なのだろうと思う。松野氏が、レオンチェフ等の当時名の知られていたソビエト心理学者たちと比して、ルリヤのロシア語はよくわかると言われていたことが思い出される。

 なお、翻訳には、松野氏の他、当時、松野氏が主任教授を務めていた東北大学教育学部知能欠陥学講座の助手の西村学氏、大学院生であった黒田吉孝氏、神常雄氏、黒田直実氏が関わったことが記されているが、その後、各氏はいずれも他の国立大学に転出され(それぞれ山形大学、滋賀大学、岩手大学、香川大学)、西村氏、黒田吉孝氏、神氏の3人は、先般それぞれの大学を定年退職され、黒田直実氏は、在職中に亡くなられた。

■ ルリヤという人

 著者であるルリヤは、神経心理学の創設者として世界的に著名な人物であり、本書解説でも詳しく触れられているが、その後知られたことなど敷衍するなら、もともとは、“天才的”(中井久夫氏の表現、“治療文化論”(1990年、初出1983年))精神分析学者として、内戦後の、モスクワから東へ800km離れた地方都市カザンに、忽然と現れた。協会員14名から成る精神分析協会のカザンでの設立、その時ルリヤ齢20歳。ルリヤはヴィゴツキーのことを天才と言うが、ルリヤも間違いなくその系統の人である。ルリヤは、協会設立のことをフロイトに伝え、フロイトから、“Dear President”から始まる歓迎の返事をもらっており、そのことを、自伝(”The Making of Mind”, 1979)に記している。ちなみに、ルリヤというのは、ユダヤ教の著名なラビ(ユダヤ教指導者)の複数の姓であり、ユダヤ人の姓としてはかなり有名なものと思われる。このことは、フロイトが返信を寄こした理由―相手が自分と同じユダヤ人であるとわかったーのひとつとも思われる。また、当時のソビエト政権は、精神分析を強力に支援していた。政権中枢にいたトロツキーによる。そのため、ソビエトの精神分析は、トロツキーと命運をともにする(國分充. ソビエト・ロシアの精神分析. 精神医学史研究, 22(1), 29-34, 2018)。その後、モスクワに出、政権の設立した国立の精神分析研究所を事務局長として切り盛りするとともに、実験心理学研究所で活動し、ベラルーシのゴメリにいたヴィゴツキーを見出し、モスクワに呼び、ともに高次心理機能の文化性、歴史性を追求する。が、その間、民族問題や、ルイセンコ学説と抵触するような発達における遺伝問題を扱うなどしたため、また、おそらく精神分析と深く係ったという前歴や、ユダヤ人ということもあって、スターリンが権力を掌握するにつれて身に危険が迫り、ヴィゴツキーとともに身を隠すように医学部で学ぶ。第2次大戦後には、神経心理学を学として成立させるパイオニアとして、再び世に出たが、コスモポリタリズム批判(反ユダヤ主義)で失職、パブロフ会議(パブロフ学説に基づいた心理学の構築を強要)では自己批判を迫られた。更に、スターリン晩期の狂気とも言えるユダヤ医師団陰謀事件では、自らの逮捕連行を覚悟し、研究所からの帰途に不意に拘束され、家族に消息が伝えられなくなってしまうことを恐れ、同僚(欠陥学者ルボフスキー等)といっしょに帰ることを常とし、同僚の仕事が終わらない時には、逮捕に備えていつも持ち歩いていた身の回りのものを入れたバッグを抱えて、部屋の隅で待っていたというエピソードをもつ、常に地雷原を行くような半生を送りつつも、それでも生きのびた人物である。ルリヤの下に留学し、自伝を書かせたマイケル・コールは、その復刻版(2005年)の新たに付け加えられた章で、ルリヤのことを“A complex man living at complex time” 、“Famous abroad, a nobody at home” と評し(ルリヤは、その国際的な名声にも関わらず、母国ソ連においては実験室の長や部門の長以上の役職に就いておらず、アカデミー会員でも、研究所長でも、病院長でもなかった)、彼を偉大な科学者にし、生き延びさせたのは、ヴィゴツキーゆずりのreflexivityで、それはrare human qualityとしている。

 また、ルリヤは映画監督エイゼンシュテイン、言語学者ヤコブソン、自由度問題を提起した運動生理学者ベルンシュテインらと親密な交流をもち、エイゼンシュタインの死後、その脳をルリヤはもっていたようである。また、ヴィゴツキーやルリヤにつながるソビエトを代表する児童心理学者であるザポロージェッツは、もともとはウクライナからエイゼンシュテインの下に出てきた役者であった。ヤコブソンの言語学は、本書のあとがきにあるようにルリヤの失語症理論に影響を受けている(逆ではない)。ベルンシュテインの当時の西側で出された英語の書“The co-ordination and regulation of movements”(1967年)の序文はルリヤが書いているし、彼のスターリン賞を受けた著書“運動の構造化について”(1947年)には、ルリヤの症例が多数引用されている。

 こうした交友関係からもわかるように、人柄としては、思いやりのある魅力的な人であったらしく、発達心理学者ジェローム・ブルーナーがルリヤを深く敬愛していたことは、ブルーナーの自伝(邦訳“心を探して”、1993年)にも書かれている(ブルーナーの師というべきピアジェについての記述と対比するときわめて興味深い)。また、先にも述べたように、アメリカからルリヤのもとに留学していたマイケル・コールが、ルリヤに自伝を書かせ(1979年)、ソ連崩壊後にも新たな稿を足して、その復刻版を出していること(2005年)も、ルリヤの人柄に惹かれてのことだろう。ルリヤが晩年近くになってからの弟子ゴールドバーグは、10数か国で翻訳されている好著“脳を支配する前頭葉”(講談社ブルーバックス、2007年)のはじめに“プロローグー亡命”を置き、自身がソ連から亡命するに至った事情を、ルリヤとの交流を中心に置きながら記している。専門書の序文としてはかなり異例のものと言えよう。また、彼がまとめた神経心理学の論文集は、Luriaの名前がタイトルについている(Contemporary Neuropsychology and the Legacy of Luria, 1990)。

 更に、ルリヤの名前を冠した心理学の国際会議も、1997年から2017年まで5回開催されている(Luria memorial congress等の名称)。これは、5年に一度の開催とされていて、近々では2017年にエカテリンブルグ(ウラル国立大学)で開催された(この国際会議とは別ではあるが、今夏にはこのウラル国立大学でルリヤの名称を冠したサマースクールが開催されたようである)。こうしたことも、ルリヤの学術的功績だけでなく、その人柄もあってこそと思われる。松野氏とわれわれは、ルリヤの生誕100年を記念して2002年にモスクワ大学で開催された第2回の国際会議(Second International Luria Memorial Conference)に参加した。その時には、マイケル・コール、記憶研究者のタルビング、ルリヤの理論に基づく評価ツール(K-ABC)を開発したカウフマンなども参加していた。写真で示すのは、その時に撮影したモスクワ大学のルリヤの教授室の記念プレートである。

ルリヤ教授室プレート

■ “発達神経心理学”の今

 松野氏は、神経心理学という学問は、“実践的には、心理学的方法による脳損傷部位の診断学と機能回復のための教育学を建設することを目指しており、理論的には、心理諸過程の脳メカニズムばかりでなく、心理諸過程自体の構造を明らかにしようとするものである”と、本書まえがきで述べ、また、“われわれは、脳障害児の研究に従事しており、…発達神経心理学とも呼べる科学の必要性を感じている”とも述べている。

 この松野氏がまえがきに記したことの一部は、障害児の診断・評価ツールが開発され、障害児の支援のためには、アセスメントが重要という認識が広がる現在、実現されつつある。KABC-IIやDN-CASのようなよく知られた評価ツールは、ルリヤの神経心理学理論に基づくものである。これらの評価ツールの結果に基づく、支援方法の体系化も進みつつあり、これは、ルリヤの理論及び松野氏の述べていた障害児へのアプローチの方法が、確かであり、時代を見越していたことの証である。

 1978年に出された“神経心理学の基礎”も、1979年に出た“The Making of Mind”も復刊されており、これはルリヤの現代性、先駆性を示していると思われるが、専門書はすぐに入手が困難になってしまう今、本書の新装版が出版されることの意義は非常に大きい。この「人間の脳と心理過程」により、神経心理学及びルリヤの考え方の根幹に触れて頂ければ、日本におけるルリヤの神経心理学の最初の紹介者である松野氏につながる者として真にうれしい。

執筆者プロフィール

國分 充(こくぶん・みつる)
東京学芸大学長。専門は障害児の心理学、心理学史。
▶ 東京学芸大学学長室だより(https://www.u-gakugei.ac.jp/president/

平田正吾
(ひらた・しょうご)
千葉大学教育学部准教授。専門は障害児の心理学。特に、知的障害や自閉症スペクトラム障害における行動制御の特性に関する研究を行っている。

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