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100年前の少女たちに学ぶ「成熟による安心」 ~映画『フェアリーテイル』とコロナパニック~(與那覇 潤:歴史学者)#私が安心した言葉

2020年の疫病と不安

 世の中には2種類の人がいる。「不安」で他人を動かそうとする人と、「安心」でそれを行おうとする人である。

 もちろん正確には、存在するのは2種類の「行為」であって、同じ人が双方のやり方を使いわけることもある。ただ、ここでは伝わりやすくするために、あえて「2種類の人」と書かせてほしい。

 一見すると不安を口にする人は、安心を語る人よりも「知識豊富で意識が高く」見える。たとえば新型コロナは人類共通の脅威と言うべき極度に危険なウィルスで、徹底した封鎖と行動変容が必要であり、そうしなければ日本は破滅する――といった話を海外の事例を交えつつ語る人のほうが、「ほどほどのところで落ち着くんじゃないの」とのんびり構える人に対して、マウントを取れる。そうした状態が、この春からずっと続いてきた。

与那覇先生 写真 ロックダウン

 しかしこれは、完全な錯覚である。

 不安や恐怖で人を動かすこと自体は、根本的に安易な行為で、誰にでもできる。もしあなたがどの家庭にもある調理包丁を手にして、通行人のいる街頭をうろうろすれば、簡単に「人を動かす」ことができるだろう。――動いた結果としておまわりさんが呼ばれて、あなたは逮捕されるけれども。

 逆にむずかしいのは、「安心」で人を動かすことだ。ここでいう「動かす」にはむろん、不安に駆られて動き出してしまった人たちを「止める」行為も含まれる。

 人を不安に陥れて動かすには、凶器があれば十分で、言葉はいらない。しかし人を安心させるには、言葉が必要になる。それも誰でも使えるテンプレートのように幼稚な用い方ではなく、その人なりに社会の中で揉まれ・磨かれ・習熟されたやり方で、言葉を使わなくてはならない。

 「私の言うとおりにしなければ大惨事になる」(たとえば、感染症で大量の死者が出る)といった言い方は、典型的な不安のテンプレにすぎない。惨事が起きなくても、「私が警告して行動を変えさせたおかげだ」と言い張ればよいだけだからだ。刃物を振り回して周囲を怯えさせる通り魔が、「とにもかくにも俺は他人に影響を与えた」と自賛するなら滑稽であるように、本来こうした「言い逃げ」は最も稚拙で、低劣な犯罪である。

1917年の妖精と安心

 しかしそれでは、成熟した形で言葉を使うとは、どのようなことだろうか。1997年の映画『フェアリーテイル』(FairyTale: A True Story)に、こんなシーンがある。

I know [what] “missing” means.
「行方不明」の意味がわかった。

 1917年、第一次世界大戦下の英国で、8歳の少女フランシスはこう口にする。母親をすでに亡くしており、父子家庭だったのだが、その父は西部戦線に出征し「行方不明」になったと伝えられてきた。ただし定期的に父親名義の手紙が届くので、それまでは字義どおりに「所在がわからない」だけだと思ってきたのだが、そうではないかもしれないという不安が初めて芽生える。そのときの台詞である。

 少女はいま、亡母の姉夫婦の一家に間借りしており、年長の従姉エルシーと同じ部屋で寝ている。天真爛漫なフランシスに対して、12歳になるこの従姉はいつも表情が暗い。当時の英国では、もうすぐ初等教育が終わって働きに出る年齢であり、「大人」になることを始終意識させられているという背景がある。

 この映画は有名な「コティングリーの妖精事件 」を素材にしている。2人の女の子が撮った他愛のない偽造写真が「妖精の実在」を示す証拠として全国的に流布し、『シャーロック・ホームズ』の作者であるコナン・ドイルまでが太鼓判を押して、大騒動になったものだ。いま風にいえば、フェイクニュースの走りということになろう。

与那覇先生 写真 森

 しかし巧みな脚色に基づくこの映画の主題は、情報社会やマスメディアの批判ではない。むしろ「フェイクか否か」よりも人間にとって、はるかに大切な観点を示すことにある。

 映画の中ではフランシスと、エルシーのすでに病没した兄ジョセフの目には、子どもの無垢さゆえに実際に妖精が「見えて」いる。逆に大人になりかけているエルシーと、彼女の母親はいくら努力しても見ることができず、そのために親子仲もぎくしゃくしている。なんとか亡兄と同じ景色を母親に見せてあげたいと思ったエルシーが、フランシスを誘って「捏造写真」を撮ったという設定になっている。

 大人たちは慣れ切って忘れているが、言葉に「意味という次元」があることを知るのは、ほんとうは恐ろしい体験だ。字面だけ読めば「所在地がわからないだけで、生きている」というメッセージだったはずの言葉が、意味としては「死亡」を示している(かもしれない)と気づく。そのことにフランシスは怯え、直感的に、大人になる――意味という「見えない次元」を意識するようになった時、引き換えに妖精を見る能力は失われるだろうことを悟る。

 この年少の従妹を安心させようとして、4つ年上のエルシーが語りかける。その内容は、というよりも語るしかたには、胸を揺さぶるものがある。

 「妖精が見えなくなっても、私たちには写真があるよ」という趣旨のことを、彼女は述べる。しかしその写真が当の2人で作った「フェイク」であることを、互いに熟知している以上、これは変といえば変だ。捏造写真ではない「リアル」な妖精を、もうフランシスは見ることができない。そうした不安の解消には、表面上はまるで役立たない言葉である。

 実際にはここでエルシーは、フランシスが身をすくませる「意味」という見えないものの世界が、リアルに妖精が飛び交うのと同じくらい豊かな空間にもなりえるのだという事実こそを、伝えようとしている。

 2人で作り上げた妖精の写真自体はフェイクでも、それに込めた家族への愛情――兄の死を嘆き続ける母の心を癒したい――は、まぎれもなくリアルだった(実際にそれが伝わり、映画の中途でエルシーは、母親との和解を達成する)。言葉や行為に「意味」があることは、怖くない。むしろそれを通じてこそ、私たちは子どものときに夢見たファンタジックなものをもう一度、手にすることができる。

与那覇先生 写真 ポラロイド

 それが大人になるということなんだよ。そう告げた結果として、エルシーにもフランシスにも奇跡が起きる。その内容は映画の進行どおり、本稿でも最後に明かすことにしたい。

2021年への意味と成熟

 不安で人を動かすために、もっぱら凶器として使われる言葉は、こうした「字義どおりではない部分に現れる、対話者相互の関係の豊かさ」としての意味の次元を、しばしば欠いている。典型は、バカや死ねといった罵倒語だ。それらは「文字どおり」バカに死ねと伝えるメッセージとしてしか機能せず、そうした単調さがより暴力性を増幅する。

 逆に同じ「バカ」でも、たとえば孤立無援の自分を損得抜きで支えてくれた友人に「君もバカだね」と言う際には、まったく異なる意味の次元に開かれている。そうした地平をともに共有しているという感覚こそが、人を安心させることができる。だから、安心のために言葉を使うことは、成熟した人でなければできない。

 そうした意味の次元を、もうだいぶ長いこと私たちは忘れるばかりか、むしろ進んで破壊してきた。その結末が2020年に露呈した、人びとが互いに「脅しあう」ことで社会を不安の底へと突き落とすコロナパニックである。

 このとき罵倒語のように「そのまま」突き刺さることで、人を動かした表現の媒体は数字だ。10人感染の後に「100人感染!」、さらにその後には「300人感染!」……と吊り上げていくだけで、容易に聞く者の理性を麻痺させることができる(きちんと判断すれば「500人感染しても直ちに医療崩壊はしないのに、100人で大騒ぎしたのがそもそも過剰だった」とわかるのだが、そうした人は少ない)。実際には幼稚な脅迫でしかないものを、データやエビデンスの名前で知的に粉飾する傾向は、コロナ以前からメディアに定着して久しい。

 むろんコンピュータを典型として、入出力が数値化され「意味という次元が生じ得ない」ことを前提として動くシステムが、今日大きな役割を果たしていることは事実だ。しかしその意義を誇張し、あたかも人間の方がコミュニケーションの様式を「計算機のように改めるべき」だと主張するのは、本末転倒である。人間の内実はAIと大差ないといった近日の議論は、そうした倒錯の上でのみ流行してきた(詳しくは、斎藤環氏との共著『心を病んだらいけないの?』を参照)。

与那覇先生 写真 数字

 こうした諸潮流がパンデミックと相互触発して生じたのが、大々的な規模での「数字による、意味の虐殺」だった。人は、金銭(収入)のためだけに労働するのではない。人生は生きるに値するという「意味」を摂取することが不可欠だからこそ、その手段として働くのである。だから代価を払ったからと言って、商品を売り手の目の前で叩き壊す(=相手が得るはずだった意味を毀損する)ような行為は、けっして許されてはならない。

 そんなことは、平常時の大人であれば、誰もがわかっていたはずのことだ。

 ところがコロナ禍に際しては、他人の生業に「不要不急」のレッテルを貼り、「金はやるんだからいいだろう」として休業を強要する、すなわち補償金という「数字」で日常生活における「意味」を踏みにじる行為が、官民一体であたかも善行のように翼賛された。その後に生じた、経済的にはなんら不自由のない著名人が相次いで世を去る異常な事態は、こうした生きる意味の破却によってしか説明がつかない。

 私たちはもう一度、安心のために言葉を使うことを覚えなければならない。意味という次元を回復させ、ひとりでも多くがそれを共有できる成熟のあり方にたどり着いたとき、はじめてポストコロナの社会が見つかったと言えるのだから。

 この意味で、1世紀前の少女たちに託して「大人になること」を描いた『フェアリーテイル』の終幕は、ほんとうに味わいが深い。

 映画の末尾、「行方不明」ではなく戦死したのだろうと諦めかけていた父親が、姿を現す。夢中で駆け寄るフランシスの目には、もはや妖精たちは映らない。――彼女は純真無垢に見えて、実は最初から父の死の予感に憑かれ、その代償行為として妖精を見出していたのかもしれないことが、さりげなく示唆される。

 一方でこのとき、ずっと妖精たちを目撃できずにいたエルシーとその両親は、初めて彼らの存在を見る。長兄の早世というトラウマに苦しみ、「自分が」見たいと念じたときには決して目に映じなかった妖精は最後、周囲が互いに込めてきた意味への思いやりに気づくことで、「みんな」の前に姿を見せた。それこそは人間が成熟を通じて、不安ではなく安心を共有できるようになることの隠喩である。

執筆者プロフィール

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與那覇 潤(よなは・じゅん)
1979年、神奈川県生まれ。歴史学者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。地方公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に自身の病気と離職の体験を綴った『知性は死なない』が話題となる。著書に『中国化する日本』、『日本人はなぜ存在するか』、『歴史がおわるまえに』、『荒れ野の六十年』ほか多数。2020年、『心を病んだらいけないの?』(斎藤環と共著)で小林秀雄賞。

▼著書