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短歌が刻む多様な時代と心理(東 直子:歌人・作家)#私が安心した言葉

一人でめぐらす思いが、暗い心の迷路にはまり込むと、なかなか抜け出せなくなることがあります。そんなとき他の人の思いに触れることで、同じ気持ちの人がいるのだ、こんな見方もあったのだと知り、出口にたどり着けることはないでしょうか。五七五七七の音韻に基づく短歌は、古くから細やかな人の心をすくい取る役割を果たしてきました。歌人の東 直子先生に、与謝野晶子から感染症広がる現在に生きる人たちの歌まで幅広く取り上げ、その魅力についてお書きいただきました。

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 今はほとんど使わなくなったが、30年ほど前、人の性格を「ネアカ」「ネクラ」の二つに区分することが流行した。「ネアカ」は、根が明るいこと、「ネクラ」は根が暗いことのそれぞれの略である。心の奥のことを指す「根」なので、基本的には本人の自称によるものが多かったが、「あの人はほんとうは暗い人間」という意味で他人に対する人格の批評用語としても使われていた。「ネアカ」「ネクラ」の分類の前に「どちらかというと」という言外の前提があったとは思うが、人間の性格が二種類にきっぱりと分けられるはずはあるまいと私は思っていた。二項対立的な分類の間に様々な心理がグラデーション的に存在する。その多様さ、豊かさを表現するものの一つに詩歌があるのではないかと思う。

 多様な人間の心理を投影する短歌について言及したい。

その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
清水(きよみづ)へ祇園(ぎをん)をよぎる桜月夜(さくらづきよ)こよひ逢ふ人みなうつくしき

(与謝野晶子『みだれ髪』)

 情熱の歌人と呼ばれる与謝野晶子のこれらの短歌作品は、人間の存在を肯定的に捉え、その肉体を力強い文体で讃美している。前述の分類でいえば「ネアカ」に分類されると思うが、ただ明るいだけではない。これらの歌が入っている晶子の第一歌集『みだれ髪』は、明治三十四年の刊行。その頃の女性には参政権がなく、自立して生活できるような仕事は極めて限られおり、社会的な抑圧は今よりもずっと強かった。女性が恋愛を主導する二首目のような歌は、保守的な価値観を持つ人々からは非難の対象となったが、若者を中心に大衆の支持を得た。晶子は、抑圧と共にあった女性像のアンチテーゼとして身体感覚を率直かつ大胆に詠み、その明るさを強調したのだと思う。自己愛をベースに表現しているが、新しい時代の女性の心意気を世の中にアピールする力があり、人を美しいと思う根源的な愛が人々の心に沁みたのだと思う。三首目の歌は、気後れするような場に向かう時、自分を鼓舞するように心の中でなんども唱える。一種の心のお守りである。

惜しきもの一つも無しと思ひつつ室の真中にひとり立ちをり

(三ヶ島葭子『三ヶ島葭子全集』)

 与謝野晶子より八歳年少のこの歌の作者は、結婚して一女をもうけたが、夫が出張先から愛人を連れて戻るなどの家庭不和と、病を得たことなどにより、子どもとも離れて一人で暮らさざるを得ず、孤独のうちに四十歳の生涯を閉じた。この歌は、晩年に作られた歌である。一人きりの部屋の真ん中で仁王立ちになり、周りを見わたして、もう惜しいものなどない、とやけになっているようにも、覚悟を決めたようにも見える。三ヶ島葭子は、悲しみと怒りを抱え続けた生涯だったが、この歌ではそういったネガティブな感情を超えて開き直り、つきぬけた明るさのようなものに到達したようでもある。とことんまで落ちこんだら、この歌を思い出したい。

全員マスクのこのでんしゃで降ってくるひかりのほうへ運ばれてゆく

(柳本々々「東京新聞」2020年3月22日)

 さて、いきなり時代は飛んで、2020年の「東京新聞」の私の選歌欄に寄せられた一首である。真冬や花粉症の季節など、使い捨てマスクをしている人はこれまでにもいたが、全員もれなくマスク姿で電車に乗るという今の情況は、新型コロナウイルスの感染拡大前にはなかったことである。この歌を、10年後、20年後に読んだときにどういう感想を抱くのだろう。「でんしゃ」「ひかり」と、ひらがなで表記されることでそれぞれの意味が薄められ、象徴化されている。「運ばれてゆく」と受動的な継続の動詞で終わっている点に、向かっている先が希望なのか絶望なのかわからない混沌とした気分が伝わってくる。数字では残せない、その時代の心を刻むことも詩歌の役割の一つだと、コロナ禍に作られた歌を読みながら思った。

ぼくたちはイート・イン・宇宙(スペース)でまた逢おうパンの缶詰かばんにつめて

(守賀日奈子「東京新聞」2020年5月3日)

 政府の自粛要請によってなかなか自由に人と会うことができなくなった情況から再会への思いがデフォルメされている。この地球は、確かに宇宙の一角に違いない。離れ離れになること、その後再会することを宇宙規模で客観視するおおらかさは、ユーモラスで清々しい。この歌を読んでから、また会いたいと思う人とは、「イート・イン・宇宙(スペース)でまた逢おう」と言ってみたくて仕方がなくなった。

日常の舟にあなたが乗り込んで、最初は少し傾くけれど

(加藤ふと「東京新聞」2020年12月13日)

 この歌はコロナと直接は関係がないが、日常を舟になぞらえた点に、不安要素の多い日々が反映されているのかもしれない。一緒に暮らす人が変われば、日常も変化する。最初は慣れないので少しぎくしゃくすることもあるだろう。それを舟の揺れに例えている。「けれど」のあとにだんだん安定してくる日常が予想される。苦さも含んだ甘やかさのある相聞歌である。少し傾くことも、日常のよき味わいの一つになる。

きみが私の好きな歌口ずさみ色褪せてゆくメロディー 終電

(瀬戸口祐子「東京新聞」2020年12月27日)

 自分の好きな歌を共有できればうれしいはずだが、「きみ」が口ずさんだとたん魅力が失せたように感じてしまったのである。もしかしたらその時初めて、この人のこと好きじゃないのかもと気付いたのではないだろうか。「終電」という一日の追いつめられた時間を示す言葉が唐突に置かれている点に、主体の心境への謎と憶測が広がる。「きみ」が登場すると恋人として読まれることが多く、たいてい好きな気持ちを表現する方向に向かうのだが、この歌では白けていく感情を表現していて新鮮である。心は常に流動的で、関係性も揺れる。言語化することで見てくるものもあるだろう。

 与謝野晶子が常に渾身で歌を詠んでいた時代から百年以上の時を経て、表現はより自由に個別化し、多様化した。一人の人間がその瞬間に胸に去来した思いや感覚は、短歌という形にすることで普遍化し、未知の人間の心と共鳴できる可能性が生まれる。

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり

(永井陽子『モーツァルトの電話帳』)

 短歌を本格的に勉強しはじめたときに、リフレインの韻律と、イメージの広がりの美しさに一目ぼれした一首である。短歌の真ん中から同心円的に同じ言葉が繰り返される技巧的な歌だが、やさしくやわらかい一首である。遠いアンダルシアにひまわりが咲いている、という要素しかないが、アンダルシアという言葉の響きが明るく、ひまわりのもたらすイメージと呼応する。その場所への強く純粋な憧憬が手渡されることで自分の奥にある憧憬を刺激され、遠い美しい場所が、胸にあたたかく広がる。なんらかのメッセージや心情吐露のような意味の濃い内容でなくても歌が感動をもたらすことがあるのだ、ということを発見させてくれた歌でもある。

 短歌は五七五七七のたった31音で一つの完成された作品である。作品をまるごとを覚えてしまえば、なんの道具も使わずにいつでも取り出し可能。その日その時の気分に合わせて、胸の中のストックから取り出せる。ストックが多ければ多いほど、気持ちも豊かに膨らませることができ、様々な試練も乗りこえていける気がする。

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執筆者プロフィール

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東 直子(ひがし・なおこ)
歌人・作家。「草かんむりの訪問者」で第七回歌壇賞。歌集に『春原さんのリコーダー』『青卵』(以上、ちくま文庫)『十階』(ふらんす堂)、小説に『水銀灯が消えるまで』(集英社文庫)『いとの森の家』(第31回坪田譲治文学賞受賞)『階段にパレット』(以上2冊、ポプラ社)、入門書に『短歌の詰め合わせ』(アリス館)など多数。

著書


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