コロナ禍に映し出された教育と社会の歪み ~子どもたちの未来のために取り組むべきこと~(越智康詞:信州大学教育学部教授)#子どもたちのためにこれからできること
子どもの教育には多大な影響が及び、先行きも不透明な現在。その中で教育現場が置かれている様々な問題点も、明らかになってきたように感じます。教育と社会とのかかわりを研究している越智康詞先生に、今の社会の教育状況について、ご執筆いただきました。
コロナ禍は、私たちが生きるこの社会にさまざまな問いを投げかけている。本エッセイでは、混沌とした世界から聞こえてくる騒めき(徴候)に耳を傾け、問題点を整理した上で、子どもたちの未来に向けて、私たちにできること、私たちがなすべきことについて考える。
技術への問い
新型コロナウイルス感染症拡大(コロナ禍)防止に向け「新しい生活様式」を模索する中、改めてその存在価値を示したのが、近年、急速に発展を遂げてきた諸々の情報技術だ。東日本大震災において、安否確認や災害情報の伝達で活躍したTwitterが、一躍注目を浴びるようになったことは記憶に新しい。今回も、自由な移動が制限される中、人々はSNSでつながり、YouTubeで暇を紛らわし、Amazonで買い物をして過ごした。高速化したデジタル・ネットワークは、余剰と欠乏をつなぎ、zoomやmeetのようなWeb会議サービスは、今や経済・社会活動を維持する必需品となっている。コロナ終息後もこうしたデジタル技術は、不登校や引きこもりへの学習支援ツールとして、多様な子どもたち一人ひとりに適合した学びを保障するUDL(universal design of learning)の道具として、その活躍を期待する声はより一層増大するだろう。
だが、技術の問いかけは、その先にある。こうした情報技術革命の利便性・有効性が、改めて社会に暴露されたことで、既存の社会の在り方への疑問が、現実味を伴って迫ってくることになった。まず、デジタル技術がもたらした新しい速度や柔軟性は、官僚制的に組み立てられた社会の「遅さ」や「固さ」を際立たせる。行政が提供するサービスと現実的ニーズの内容のズレや到達にかかる時間やコストの膨大さに、誰もが唖然としたのではなかったか。
だが、それだけではない。今日のデジタル技術は、さらに根本的な問い(パンドラの箱)を開く。そもそもon-lineで授業が可能であるのなら、少数のスーパー教員を除き、大半の教員は不要になるのではないか。さらに遠隔で済むのなら、そこに居ること(大学に所属する、東京に住む)に意味はあるのか。こうした問いの先端には、シンギュラリティ騒動に見られるように、「全知全能のAIの登場により、人間(思考)は不要になる?」といった不安も待ち構えている。
シンギュラリティの信憑性についてはここでは問わない。ただ、デジタル革命により、とりわけ米国などを中心に、中間層が衰退し、多くの人々が低賃金で不安定な職に追い込まれつつあるのは事実である。とはいえこうした状況は、純粋に技術の帰結というより、極限まで効率性を追求しようとする現在の経済的文脈の中で生じた事態である点は見逃すべきでない。技術は、誰かが何かを求める中で生み出されるものであり、それ自体、決して中立なものではない。他方、何人も技術の意味や効果を支配することはできない。技術は、製作者の意図を超え、全く予想しない新しい世界・環境・条件を開くからである。そして、この新しく開かれた条件をどのように活用し、次の技術開発につないでいくかは、再び私たち人間(政治・社会の在り方)にかかっている。
従って恐れるべきは、技術の発展それ自体というよりも、何者かを過信し依存する私たちの態度であり、選択・決定を外部にゆだね、現実を直視し、考え、行動することから逃避することである。だが、ここで改めて気づくのは、日本ではこうした「思考停止」の状態が既に蔓延しつつあるのではないかという危惧である。社会や未来づくりには無関心で、与えられたゲーム内での勝利・生き残りに全身全霊を傾ける、経済=技術的世界観にどっぷりつかっているのである。
経済システムへの問い
今回のコロナ禍で、深く印象づけられた第二の側面は、私たちの生活がグローバルな経済システムに、いかに深く結びついているかだ。
特定の国家・地域の事案が、瞬く間に全世界へと広がり、自由と生命の人権を巡る議論は後景に退き、生命と経済のリスクの大きさが天秤にかけられるようになった。経済は生きたシステムであり、私たちの生活はその健全な活動(貨幣と商品の流通)の上に成立している。かくして、「コロナとの闘い」から「コロナとの共存」へと、私たちの方針も転換することになった。
とはいえ、こうした方針の転換により、今日の経済システムの在り方がそのまま肯定されるわけではない。お金がないと生きていけない(なんでもお金で買える?)商品依存社会であること、個人を支えるセーフティネットが弱いことが、政策の幅を狭めているのは事実である。とりわけ、成長に偏った経済政策の在り方への疑念は高まるばかりだ。オリンピックなど大規模イベントに経済の活性化を期待する声がある一方、本当にそれで良いのか、一体誰が得をするのかといった疑問も強まっている。コロナ禍の影響が深刻な状態にあるアメリカでは、経済格差が基本的な人権レベルの格差(=差別)に直結している様子も鮮明に現れた。豪邸に引きこもり、高額医療を受けられるのは恵まれた者たちに限られ、経済的弱者は、感染リスクの高い環境に置かれ、十分な医療も受けられず、まっさきに仕事を失うリスクにさらされている。
世界におけるコロナ禍での混乱状況を振り返ると、医療費削減など効率優先の政策が事態を深刻化させた要因であることも見えてくる。既に日本では、台風災害等において、日ごろの防災体制の重要性が浮き彫りになっていたが、そもそも自然の驚異が高まってきた背景に、気候変動の影響を指摘する声もある。以上は、一般化して言えば「市場の失敗(限界)」にかかわる問題だ。社会格差や精神破壊をも含む環境課題が「神の見えざる手」で自動的に解決する、ということはありえない。他方、環境の改善は、必ずしも経済を犠牲にするものではなく、うまく行えば経済にも大きなメリットがある。とりわけ人づくりは重要で、幼児教育(非認知能力)への投資効果は、その有効性が実証済みであるにもかかわらず、現状ではほぼ無視された状態にある。
こうした課題の解決に取り組むことが出来るのは、私たち市民であり、広い意味での政治・教育だ。環境破壊や社会格差の深刻な現状に鑑みれば、政治は早急に手を打たねばならない。
政治・教育への問い
ところが、今回のコロナ禍で最も如実に現れたのが、政治の劣化(停滞=遅れ)であるといえるかもしれない。世界の複雑化に伴い、解決すべき課題の量も質も変化しているが、政治の仕組みや概念、市民の意識や教育は旧態依然たるままなのだ。
確かに、政治は複雑で一筋縄ではいかないものだ。政治は課題の複雑さに加え、課題に対する意見や解釈の多様性にも対処しなければならないからだ。今回のコロナ禍においても、住む場所や年齢、さらには経済的な立場により、リスクの大きさや状況認識自体に大きな差があり、政治的調整の難しさが顕在化した。
しかしながら、コロナ禍への政治的対応の迷走ぶりに、苛立ちを抑えることは難しい。長期的な展望を欠く場当たり的な対応で、貴重な資源がいたずらに浪費される一方、未来に膨大なつけが回される。意志決定過程も不透明で、政治に対する不信は強まるばかりだ。ただし、こうした事態も特定の政党やリーダーを批判して済む問題ではない。そもそも制度化された政治に責任を押し付けようとすること自体、政治の矮小化だ。むしろ政治とは、社会づくりに携わるすべての市民・組織・制度の問題であり、私たちの意識や行動もその一部に含まれる。そして、政治に停滞が見られるとすれば、それは民主的な社会過程や、メディアや教育へのメインテナンス不足等と関連した、トータルな問題として捉えるべきであろう。
政治の縮小・停滞と経済=技術システムの肥大化は、相互に強め合っている。経済のグローバル化を背景に、政府は国民(の生活や幸福)より国家(の競争力)を重視する経営者となり、政党政治の仕組みは、政策よりも人気を競い合うゲームと化している。私たち市民もまた、政治劇の観客・傍観者あるいは消費者・クレイマーとなる一方、過酷な競争的環境に置かれた企業戦士として、社会づくりに参加する時間と労力を惜しむ(コスト視する)ようになった。私たちと社会・未来とのつながりが希薄化することで、教育もまた自らの商品価値を高める修練の場以上のものではなくなり、子どもたちは学ぶことに意味や価値を見出せず、孤独を深めている。
子どもたちの未来を取り戻すために
技術、経済、政治の三者は相互に、循環的に結びついている。とりわけ今日の技術革命は、社会に流動性をもたらし、経済と政治の関係も、よりボーダーレスになっている。こうして新しい可能性が開かれ、人間の行動の重要性が高まりつつあるにもかかわらず、政治や人間づくりの領域は、変化から取り残されたままである。まず、政治は領土(一国主義)や制度(政治イコール投票という発想)から抜け出し、より柔軟で応答的で知性的なものへとバージョンアップする必要がある。
人々の社会活動を活性化するには、一人一人が社会に支えられ、その力を借りながら自由に活躍し、社会構築のプロセスに参加・貢献しているとの手ごたえが実感できるようシステムをリ・デザインする必要がある。そして市民が公共性に配慮した投資や消費を行うようになることで、経済もまた、社会貢献に取り組む方向に誘導されていくだろう。多種多様な課題を、国境を超えて関連づけ、領域横断的に解決しようとするSDGs(持続可能な開発目標)などの仕掛けは、ひとつの希望ではあるが、解くべき課題の複雑さに鑑みれば、ほんの糸口に過ぎない。未来は無限で、私たちは試行錯誤を繰り返しながら手探りで進んでいくしかない。残念ながら(幸運にも?)、AIに任せておけば何も考える必要はない、という時代は当分訪れそうもない。
執筆者プロフィール
越智康詞(おち・やすし)
信州大学教授。専門は教育社会学。学校の組織社会学的研究、教育のシステム論的分析、教職論・教員養成、教師のリフレクションなどを研究テーマとする。『新しい時代の教育社会学』(共編著、ミネルヴァ書房)などの著書がある。