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肯定を肯定する文学の力~岸政彦を読んで考える~(木股知史:甲南大学名誉教授)#不安との向き合い方

 昔から文学は人の心を救ってきました。不安にかられたとき、物語や小説に心救われた方は少なくないでしょう。文学にはなぜ、そのような力があるのでしょうか。読者との間にどのような働きがあるのでしょうか。近代日本文学の研究者、木股知史先生にお書きいただきました。

 文学が人間に救いや希望を与えるということはどういうことなのか。具体的な事例を通して考えてみたい。

木股先生本写真

 社会学者の岸政彦氏に『断片的なものの社会学』(2015年6月、朝日出版社)という本がある。岸氏は人々の生活史のインタビューをとり、その語りから社会の歴史や構造を読みとる生活史調査を行ってきた。この本は、聞き取りを続けてきて感じた「分析も解釈もできないこと」を集めて言葉にしようとした試みである。あたかも短編小説を読むような感じがあり、文学に近い味わいがある。

 最も記憶に残ったのは「時計を捨て、犬と約束する」という一編。著者が小学校一年生の時から飼っていたミニチュア・シュナウザーという犬種の愛犬を、大学一年生の時に亡くした時のことが語られる。犬は病気で衰弱していた。岸氏が三十分ほど外出している間に、その犬は死んでしまった。長い間ともに時を過ごした愛犬の死は深い喪失感をもたらした。ある人が、おそらく著者を慰めるつもりで、「あなたに死に際を見せたくなかったから、出かけているあいだに先に逝ったんだよ」と言ったが、著者は怒って否定した。「ある人」の言葉は、人間の都合で事態を安易に物語化してしまっている。

 次に語られる時計のエピソードで、世界の中で人間はそれぞれ孤立して存在するしかないことが確認される。まだ時を刻んでいるが、壊れた時計を捨て、時計が清掃局の車に回収され、焼却炉に投げ入れられる様子を想像する。時計に心を痛めるが、それはものを擬人化した「たわごと」だと、岸氏は気づく。
 岸氏は次のように書いている。

 私はそのシュナウザーを心から愛していたし、いまでも愛している。また彼女も私のことを、心から愛していた。しかし彼女は、別に私に気を使って私がいないあいだにわざと死んだのではない。彼女はそのときに、ただ単に死んだのだ。そして、死んでしまった彼女は、もうどこにもいない。私は彼女の匂い、声、仕草、重さ、手触りをはっきりと覚えているが、彼女のほうはもう私のことは何も覚えていないだろう。そもそももう存在すらしていないのだから。

 死というものが残された者に与える容赦のない事態が冷静にとらえられている。残されたのは、犬との暖かい思い出と喪失による深い孤独である。

木股先生ろうそく暗闇写真

 しかし、その後で紹介される二つのエピソードは、孤独からの転調をうながすものだ。一つは、死んだ犬と同じ犬種の犬が飼われているカフェがあり、祖先が同じかもしれないという話。カフェの犬に会うと、死んだ犬のことを思い出す。もう一つは、犬に説教しているおばちゃんを目撃した話。おばちゃんは犬を「擬人化」しているのではなく、「人と人以外を区別しない人」だととらえられる。

 悲哀の経験を安易に物語化することを拒むことは、自分が世界の中にたった一人で存在していることを確認することだった。しかしそれは、みなが同じように存在しているというつながりに気がつくことでもある。カフェの犬は、死んだ飼い犬の思い出につながり、おばちゃんにとっては、人と犬がつながっている。苦しみをとらえながら、そこからの変化をさぐろうとする岸氏のこのエッセイは、ある意味で文学の役割について暗示しているとも考えられる。

 やがて、岸氏は小説を発表するようになるが、多くの作品に登場人物が飼っている犬や猫の死が描かれている。『図書室』(2019年6月、新潮社)に収められている『給水塔』という自伝エッセイにも、文学との出会いとこの犬のことがからめて記されている。岸氏が「十代のときにもっとも影響を受けた」のは、小松左京の『少女を憎む』という短編小説だった。その小説は、「いまにいたるまでずっと私に影響を与え、私の人格のもっとも深いところをかたちづくった」という。興味を引かれて、『少女を憎む』を収めた本(『小松左京セレクション4』1995年12月、ジャストシステム)を取り寄せて読んでみた。小松左京の自伝的作品で、敗戦前後の混乱期を背景にして、主人公の解放感と絶望を描いている。男女の中学生たちがカップルになるためにかくれんぼをする。主人公はある健康的で利発な女子学生と二人きりになる。彼女は草にふせながら、光に満ちた空を見上げて「空襲がないのって、いいわね」と言う。主人公はその時はじめて、「若さや、平和を、年齢や社会の相対的状況といった、抽象的な概念ではからず、そのあるがままの状態において肯定する」ことを知った(編集部注:原文は太字部分に傍点有)。しかし、女子学生は戦後の混乱期のいまわしい犯罪の犠牲になって命を落とす。時がたってからそのことを知った主人公は激しい後悔に苛まれる。『少女を憎む』という題名は、少女の肯定的な生命感が失われ、それがいなむべきトラウマに転化したことを示している。岸氏は『給水塔』でこの小説から受けとったものについて、次のように書いている。

 この短編はほんとうに暗い、救いのない、凄惨な作品だが、奇妙なことに私は、そこから「肯定的なものに対する肯定」、あるいはもっと単純にいえば「希望」のようなものを受け取った。

 この引用の後で、飼い犬の死のことが書かれている。飼い犬から「この世界にはなにか温かいもの、うれしいもの、楽しいもの、好きなものがどこかに存在するのだということを教わった」が、その気持ちを「小松左京のこのまったく有名ではない短編小説から、肯定してもらった気がした」と岸氏は語る。救いがない陰惨な結末の小説から肯定的な感情を受けとるというのは、常識的に考えると不思議であるが、それが文学の力だと考えることもできる。苦痛をより深く描くためには、肯定的なものをより鮮明に描く必要がある。『少女を憎む』という小説は、否定的な結末を持つが、主人公が女学生から得た肯定的な感情は、若い岸氏が犬との交流から得た温かいものにしっかりした形を与えてくれた。岸氏の「肯定的なものに対する肯定」という言い方には含蓄がある。肯定的な感情をごく自然に感じていても、それをしっかり認識することはむずかしいことなのだ。苦痛と対比されるように鮮明に描かれた肯定的なものは、苦痛を超えて、若い読者であった岸氏に希望を与えたのである。

木股先生犬と少年道写真

 「肯定的なものに対する肯定」という言い方は、悲劇の役割について述べたアリストテレスのカタルシスという概念を思い出させる。『詩学』(2019年3月、三浦洋訳、光文社古典新訳文庫)の第六章には、悲劇の本質について「憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシス(浄化)をなし遂げるものである」と述べた一節がある。三浦洋氏は『詩学』(前掲書)の解説で、カタルシスの作用を「憐れみと怖れから快を分離する」ことだととらえている。この理解はギリシア悲劇のみならず、文学全般に広げることができるだろう。「快」をここでは肯定することに置き換えてみよう。文学は世界にあふれている不安や苦痛を無視することなく描き出すが、そこから肯定や希望を分離して示すこともできるのだ。

 これまでに書かれた岸氏の小説を読んで思ったのは、苦痛や不安を超えてどうすれば、肯定的なものを肯定することができるか、ということがモティーフになっているということだ。最初の小説集『ビニール傘』(2017年1月、新潮社)には二編の小説が収められているが、表題作がとてもいい。大阪で暮らした、交差しそうでいて交差しない男と女のそれぞれの語りが描かれている。作家として第一歩を踏み出すために、おずおずと読者に差し出されたような感じがあるこの小説には独特の魅力がある。その読後には流れがとどこおることがない短い映像作品を見るようなリズムの良さが感じられた。ラストにはとても印象的なイメージが置かれている。大阪での苦しい体験を経て故郷の実家に帰った女性は、安息を得るために実家の座敷で一日中寝ていた。うとうとしていると、頬に何か感触があり、それは子どもの頃飼っていて死んでしまった犬が布団の中に入ってきたのだと感じる。

 ここで、小説は閉じられてもいいのだが、女性から犬に視点を移して、美しい幻想的なシーンが語られる。未読の人々の楽しみを奪わないために、これ以上詳しく紹介することは避けるが、それは安易な物語を超えて、肯定を肯定するために湧き出てきたとても美しいイメージなのである。

執筆者プロフィール

木股知史(きまた・さとし)
近代日本文学研究者。博士(文学)。甲南大学名誉教授。著書に『画文共鳴 ~『みだれ髪』から『月に吠える』へ』(岩波書店、二〇〇八年一月)、『石川啄木・一九〇九年 新訂増補版』(沖積舎、二〇一一年七月)などがある。

著書