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忘れる術<すべ>(聖心女子大学現代教養学部名誉教授:高橋雅延)#心機一転こころの整理

忘れようと思い決めて、忘れることができるのならば、どんなにいいだろうと思うことはないでしょうか。それでも、なかなか忘れることができないとき、どうすればつらい記憶から離れていくことができるのでしょうか。高橋雅延先生にお書きいただきました。 

忘れられないネガティブな記憶

 人間なら誰にでも、嫌な記憶、つらい記憶、悲しい記憶があるはずです。そして、こういったネガティブな記憶を何とか忘れたいと思っている人も多いことでしょう。なかでも、災害や事故などの命に関わるような出来事を経験した場合、その恐ろしい記憶が理由もなく突然フラッシュバックしてしまうことがあります。そのために一種のパニック状態におちいり、日常生活を送るのに支障をきたすことも珍しくはありません。私の専門外ということもあり、ここではこのようなトラウマ記憶については扱いませんが、ふつうのネガティブな記憶であっても、トラウマ記憶と同様、自分の意図に反して思い出されてしまうという点では共通しています。このように、自分ではうまくコントロールできないネガティブな記憶に対して、私たちはどのように対処すればよいのかを記憶の引き金や出来事の解釈の転換という側面から考えてみましょう。

記憶の引き金としての環境

 まず、どのような種類のネガティブな記憶であっても、多くの場合、その記憶を自動的に思い出させてしまう引き金となるものが身のまわりの環境に存在しています。ここでは、失恋というネガティブな記憶を例にして、その引き金となる場所、匂い、モノについて考えてみます。テレビや映画、小説などでよく使われる設定だけに限らず、現実でも恋人と別れた場所に行くとそのときの記憶が思い出されることがあります。また、これは私の学生から聞いた話ですが、別れた恋人がつけていた香水の匂いに接すると、当時のつらかったネガティブな記憶が思い出されるそうです。もちろん、記憶の引き金となるのは場所や匂いだけに限りません。もらったプレゼントや、スマホに残っている恋人と一緒に写した写真や交わしたメールといったモノもあります。

 ここでは失恋の記憶を例にあげていますが、それがどのような出来事の記憶であろうとも、私たちの意図とは無関係に記憶を思い出させるのが、身のまわりの環境に存在する引き金であることには変わりありません。そうなりますと、ネガティブな記憶を思い出したくないのならば、できるだけそのような環境内の引き金を遠ざけることが重要となります。その意味で言えば、別の場所に引っ越して、もらったプレゼントなどは処分し、使っていたスマホの機種の変更などによって、自ら環境を変化させるということが考えられます。そのタイミングとして、新学年のはじまり、大学進学や社会人としてのスタートなどは、まさに心機一転の絶好のチャンスなのです。

記憶の引き金としての自分の感情

 けれども、環境を一新するということは、多くの人にとってそれほど簡単なことではありません。しかも、かりに環境を変化させることができて、環境内にあるネガティブな記憶の引き金を遠ざけることができたとしても、肝心のネガティブな記憶そのものは消えたのではなく、自分の心の中に残っています。そのため、ふとしたときに意図せず思い出してしまうことが起こるのです。

 それはどのようなときなのでしょうか。先ほどの失恋の記憶における場所を例にして環境内の引き金のはたらきについて考えてみましょう。これらの環境内の引き金は、もともと感情的にはニュートラルなものであったはずです。ここでの問題は、そのニュートラルな環境と、そこで生じた出来事が、ネガティブな感情を介して強く結びついてしまっているということなのです。そのため、ある出来事の起こった場所が記憶の引き金になる理由は、場所が特定の感情を引き起こし、その感情の色合いと一致した記憶が自動的に引き寄せられるからなのです。たとえば、冬の日のどんよりと曇った早朝に誰もいない海岸を一人で歩けば、もの寂しさや抑うつ感を感じ、楽しい記憶ではなく、どちらかと言えばネガティブな記憶が思い出されるはずです。これとは反対に、夏の日の青々とした大空のもと誰もいない早朝の海岸を歩けば、喜びや高揚感を感じ、楽しい記憶が思い出されるのです。

 つまり、ふと物思いにしずんだときとか、ほかにも書物やメディアやSNSなどで悲しい場面に接すると、ネガティブな感情が心の中に生じ、たとえ環境内に引き金がなくとも、その感情がネガティブな記憶の引き金となってしまうのです。確かにネガティブな記憶の引き金と出くわす「機会」を減らすというのも有効なのですが、それは「心機一転」の「機(会)」を変えるだけに留まっているのです。結局、自分の「」に変化を起こさなければ、いつまでもネガティブな記憶からは逃れられないのです。

出来事の解釈の転換

 いったいどのようにして心の変化を起こせばよいのかについては、いわゆるストア派と呼ばれる哲学者たちの考え方がとても参考になります。ストア派の特徴のひとつは自分の自由になることと自由にならないことを明確に分けることです。自由になるのは私たちの心のはたらき(出来事を解釈する能力など)だけであり、私たちの心の外にある環境や出来事は自分の自由になりません。そして、どのような感情が生じるかは、ある出来事をどのように解釈するかによって決まるというのです。

 たとえば、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言いまわしは、暗闇に出現した物体を幽霊だと解釈してしまい恐怖を感じるのですが、実は枯れたススキだとわかると恐怖が消え去るという意味です。また、ひどい吹雪の夜に真っ暗な雪道を長時間歩いてようやくたどり着いた目的地で、実は自分が歩いてきたのは凍った湖面だったと知り、急に恐怖を感じることも心理学ではよく引き合いに出されます。これら二つの例のいずれもが私たちの外の世界の解釈の違いにより感情が決まるということを裏づけています。つまり、私たちはネガティブな出来事の記憶そのものを消すことはできませんが、その出来事の記憶の解釈を変えれば、苦しみやつらさから抜け出せるのです。このことは理屈ではわかったとしても、実際には嫌な出来事やつらい出来事からネガティブな感情だけを消し去るのは簡単ではありません。

 フランシス・マクナブという臨床家は『喪失の悲しみを越えて』という著書の中で、ネガティブな記憶とは心の中のリビングルームに置かれた家具だという比喩を持ち出しています。その家具は大きすぎて部屋に収まらず邪魔なのですが、その家具の置き方を変えたらどうなるかを考えてみようというのです。この比喩をマクナブが持ち出した真意は、ネガティブな自分の記憶は自分で解釈を変えるしかないということを伝えたいのだと私は思います。

 ここでいう解釈というのは、個人が記憶を眺めるための立ち位置と言い換えることができます。この点に関してよく引用されるのが、黒澤明監督の映画『羅生門』(原作は芥川龍之介の『藪の中』)です。三人が同じ出来事を経験しても自分の立ち位置によって記憶された出来事の内容がまったく異なっているという作品です。このことから考えますと、とても難しいことでしょうが、一度、今までの自分の立ち位置とは異なる立ち位置からネガティブな記憶を眺めてみてはどうでしょうか。

 当然、どのようにして異なる立ち位置に立てばよいのかと尋ねられるはずです。それは各自が考えることだとは思いますが、一つの有効な方法としては今までとは異なる新たな世界を経験することだと私は思います。よく学生に言うのですが、ある特定の世界を「知らない」のと「知っている」のはまったく違うのです。私自身もここ数年、演劇、落語、オペラ、クラッシックバレエ、ゴルフ、縄文杉や熊野古道の旅といった世界を初めて経験することで、大きな変化を感じました。まったく「知らない」0(ゼロ)と、1回だけでも「知っている」1(イチ)では世界観が大きく転換します。もちろん、1よりは2、2よりは3と数多くの類似の経験を積み重ねることに越したことはありませんが、さしあたって、何でもよいので、新たな世界を経験してみてはどうでしょうか。

 その際、自分で経験するには時間的にも金銭的にも限界がありますので、フィクションやノンフィクションを問わず古今東西の人びとの考え方を知ることでも世界観が変わります。私の場合、太平洋戦争の特攻作戦で敵艦に突っ込む前に、機体の故障で墜落死した兄をもつ女性のことばがそうでした。その女性に対して聞き手が「それは敵兵をひとりも殺せず無駄死にでしたね」というニュアンスで話を続けた際に、その女性はきっぱりと「兄は誰も人を殺さなかったので本当によかったです」と語ったのです。私も聞き手と同じ立ち位置でいましたので、思いがけない世界観を知り心底打ちのめされました。

 このように、直接的であれ間接的であれ、新たな世界を経験することでしか異なる立ち位置を身につけることはできません。そして、このことこそが、遠回りのようですが、ネガティブな記憶に対する判断を転換するための真の意味での「機一転」なのです。 

著者プロフィール

高橋雅延(たかはしまさのぶ)
京都教育大学卒業、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程を学修認定退学後、1986年から同助手、1990年から京都橘女子大学講師、助教授を経て、1994年から2023年まで、聖心女子大学で教鞭をとり、現在、聖心女子大学名誉教授。京都大学博士(教育学)。

専門:認知心理学

主要著書:『家族関係の闇が引き起こす「抑うつ」と、その解放』(英治舎)、『無意識と記憶』『変えてみよう!記憶とのつきあいかた』(岩波書店)、『心理学 第2版』(サイエンス社)、『記憶力の正体』(筑摩書房)ほか多数。