自分を好きになれないという心理(川崎直樹:日本女子大学教授)#立ち直る力
「自分を好きになれない」「自己肯定感がほしい」といった悩みを持つ人は多くいると思います。筆者自身も、なかなか自分を好きになれない人間で、ずっとこのテーマを考えてきました。自己受容、自尊心、自己愛・・・いろいろな言葉がありますが、この悩みとどう向き合ったらいいのか、はっきりした答えは見つかりません。ただ、心理学のいろいろな知見をヒントにしたときに見えてきた風景を少し書いてみたいと思います。
“「自分を好きになりたい」と思う自分”がいるということ
主に社会心理学者が言及していることの一つは、私たちの頭の中、心の中には、「“自分を好きだ”と感じたり“嫌いだ”と感じたりして、私たちをそわそわさせる装置」がついているというものです。その装置は、バロメーターのようなもので、人から賞賛や好意を向けられれば「自分が好き」の方向にふれ、軽蔑や拒絶の気持ちを向けられれば「自分が嫌い」の方向にふれる、という性質を持っています。「自尊感情のソシオメーター理論」(1)といわれるこの理論は、「他者からの社会的(ソシオ)な評価に対して、的確に一喜一憂するバロメーターを心に持っていたヒトのほうが、自分を省みて行動を修正できるので、集団から排斥されず、生き延び、子孫を残すことができた」と考えます。私たちの父母も、その父母も、その父母も・・・(ある程度)他者の評価を気にして、自分を好きになったり嫌いになったりしていたはずです。そうした敏感さを持っていたからこそ、私たちは今ここに、一人のヒトとして生まれ残っている、ということです。自分を「好きー嫌い」と気持ちが変動するのは苦しいことですが、揺れ動くデリケートな心それ自体が、進化の自然淘汰の流れから、私たちと私たちの祖先を守ってくれたのだといえるでしょう。
上記のように考えると、「自分を好きになれない」と感じる瞬間があるのは、人間が生きる中で必ず生じる、必然的な揺らぎであるといえます。「人間、そういうふうにできている」というのが実情で、「好きになろう、とやっきになることもない」と思ってみるのも一つの手かもしれません。むしろ「自分が嫌い」という状態を、自然な揺らぎとして受け止め、耐える力こそ大切になる、ともいえるでしょうか。また逆にいえば、「自分を好きだ」という気持ちだけを感じようとして、「自分を嫌いだ」と一切感じないようにすることは、あまり自然な姿とはいえないのでしょう。「ナルシシスト(自己愛者)」と呼ばれ、かえって拒否や嫌悪の対象となってしまうのは、そういう状態像かもしれません(2)。
“「こんな自分はいてはダメだ」と思う自分”がいるということ
しかし一方で、「自分を好きになれない」という気持ちは、かなり強烈なインパクト持っていて、自分を守るどころから、自分を追い詰めてしまうこともあります。臨床心理学の中では、自分で自分を責めて追い詰める心の動きを、「自己批判」と呼んだりします。理論によって詳細な見解は異なるでしょうが、おおよそ、うつや不安、恥や孤独感など、いろいろな心の問題や苦しみに、深く関連しているともいわれます(3)。
先述のように、私たちは社会的な動物であり、他者からの評価をとても気にするようにできています。そのため、自分が他者の目に、「望ましくない人間」として映らないよう、自分を隠してしまうことがしばしばあります。私たちは、自分の中にいる「弱い自分、暗い自分、下手な自分、不安な自分、病んでいる自分、わがままな自分」に対して、「そんな自分が出てくると愛されない!拒絶される!危ない!引っ込んでいないと!」と、監視をします。怒りや軽蔑の感情を向けて、疑い、委縮させ、人目につかないところに隠します。私たちは、人とのつながりを守るために、自分を隠し、人とのつながりを断つという、トリッキーなことをします。自己批判のこうした働きは、生きる本人には強い苦しみをもたらしますが、基本にあるのは、「あなたを守ろう」という(遺伝子の?)健気で一途な願いである、ともいえるでしょうか。
ただ健気で、一途であるがゆえに、気を付けないと、私たちの人生を幸せから遠ざけてしまうこともあるようです。自己批判は、欠点の改善や成長を促す面もありますが、自分を委縮させてしまうがゆえに、問題と向き合う力も奪ってしまうことがあります。回避や逃避につながったり、相手への服従的な行動(言いなりになるなど)につながったりすることもあります。そしてそのように、自己批判が自分自身を追い詰めている、ということがわかっていても、本人は「でも当たり前じゃないですか?だって自分はこんなにダメなんだから」とか、「自己批判をやめたら、ダメ人間になってしまうでしょう?」とか、自己批判にある種の「親しみ」を感じがちなようです。
自己批判自体は、自然な心の動きであり、必ずしも「悪玉」とはいえません。でも、常に「善玉」か、というと、そうとも言い切れないようです。自分はどんなふうに自分を批判しているのか、その批判は本当に目指している方向に自分を導くのか、考えてみることが大切かもしれません。あるアプローチ(3,4)では、「自己批判する自分」は、どんな姿で、どんな顔で、どんな声で、自分に語り掛けてくるかをくっきりとイメージをします。そのうえで、「この『自己批判する自分』は、もし自分が幸せになったら、それを一緒に喜んでくれるのか?」と、ゆっくりじっくり、考えてみたりします。「幸せなんて危険だ。気を抜くな。お前はそれに値しない」という声が聞こえてきて、「ああ、そうだその通りだ」と委縮してしまうかもしれません。でも一方で、「これはなかなか理不尽でキツイことを言っているなあ」「けっきょくどうしたいんだ?」と、少し距離をとって眺めることができるかもしれません。
「批判」には「批判」の言いたいことがあることがあるかもしれませんが、私たちは批判そのものではありません。私たちの心は、「いろいろな自分」が住んでいる「小さな社会」のようなものだといわれます(5)。自己批判を、自分という心の中の住人の一人として認めたうえで、ちょっと付き合い方を考えてみてもよさそうです。
〇〇と自分の関係を考える
さきほどの続きとして、ここで2つの問いについて、考えてみたいと思います。
苦しんでいる誰かを見る、というのは、ある意味苦しいことです。それが自分にとって大切な人であればなおのことで、自分のことのように苦しさを感じるかもしれません。その苦しさを共に感じながら、私たちの心はどんなふうに動くでしょうか。自分が相手の力になれるのか?と不安になるかもしれませんし、何て言っていいかわからない、と迷うかもしれません。でも、おそらく背景には、「相手の苦しさがやわらぐといいな」「これ以上つらくなりませんように」という素朴な願いがあるのではないかと思います。
では次の問いについても考えてみてください。
一人の人間が悩んで自分を批判している、という点では、これは先ほどの問1と「同じ問い」です。しかし、この問2に対しては、問1とは、少し違う気持ちになる人が多いようです。反応の詳細は人によってさまざまでしょうが、「ちゃんとしないと」「しっかり反省して」と、改善命令のような反応をすることが少なくないようです。そしてその声のトーンが焦りや侮蔑を伴っていることもしばしばで、先ほどのようなやさしい気持ちを持ちにくい、ということに気が付くかもしれません。うまくいかない自分と向き合うとき、私たちの心は「苦しさがやわらぐように」といった願いではなく、「いかに社会に適応するか」という焦りの方向へともっていかれるようです。
大切な他者がうまくいっていないとき、私たちはその相手の苦しみをそのまま理解し、支えたいと願います。一方、自分がうまくいかないとき、私たちは自己批判のポジションに立って、改善を迫ってしまうことが多いようです。おそらく元気で自分に自信が持てている人は、そうした批判をバネにしてがんばることができるかもしれません。しかし、元気がなく自信を失っている人に、さらに批判が向けられたら、どうなるでしょうか。それは元気や勇気につながるでしょうか、落ち込みや不安につながるでしょうか。努力や実行につながるでしょうか、回避や隠ぺいにつながるでしょうか。
「自己批判」それ自体は、ある意味で健気で一途な心の働きですが、全てを担わせるのは酷かもしれません。困難に向き合うときには、自分の中のいろいろな力を総動員する必要がありますが、「やさしい気持ちの自分」も、自分を支える力を持っています。困難に面して、不安で自分を疑う気持ちになっている自分に気づき、そんな自分に対して、大切な誰かを支えるような気持ちで接することができたら、どんな感じがするでしょうか。
実際のプロセスは人によって状況によってさまざまかもしれませんが、どんな風にしたら、自分は元気になって、苦しい現実と向き合えるのか、いろいろと考えられるといいでは、と思います。
自分に対する“〇〇”
「自分を好きになれない」気持ちについて、3つのことを考えてきました。1つは、自分を好きになったり嫌いになったりするのは、そういう防衛装置が心の中についているからであり、ある種の自然な揺らぎである、ということでした。2つ目は、「自分を嫌い」という自己批判的な気持ちが心を支配してしまうと、自分を追い詰め、委縮させ、自分を幸せから遠ざけてしまうことがある、ということでした。3つ目は、「自己批判」をなくすことはできないですが、苦しみに近づいてそれを和らげようとする気持ちの自分もしっかり持って、バランスをとるとよいかもしれない、ということでした。
ちなみに、近年の心理学の中では、自分や人生に対する「コンパッション(思いやり・慈しみ)」が注目を集めています。上記のアイデアもほとんどは、コンパッション・フォーカスト・セラピー(3,4)の理論から考えています。ただ、「コンパッションを持ちましょう」と急に言われても、そもそも外来語では違和感がありますし、「思いやり?そんなの甘えでしょう?」という反応が出るのも自然です。そのため今回は、「コンパッション」という言葉をあまり使わずに、この問題について考えてみました。
コンパッション・フォーカスト・セラピーの実践・研究者の一人(6)は、怒りのコントロールに苦しむ受刑者に、コンパッションのアイデアを紹介するとき、コンパッションという用語を強調せず、「本当の強さ(True Strength)」という表現を使うそうです。過酷な過去を抱えた人ほど、「思いやり」や「やさしさ」が、危険で恐ろしい言葉に聞こえるのは自然なことなのでしょう。言葉のおしつけになるのではなく、その時の自分にしっくりくる言葉を、自分でさがすのは、大切なことだと思います。自分の生活を支えるために必要な心掛けを、「自分に対する〇〇」「人生についての〇〇」「苦しみに対する○○」などと、自分でしっくりくる言葉で言い表して、いつでも思い出せるように持っておけると、いいのではないかなと思います。
執筆者プロフィール
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