不安から抜け出すためのロールレタリング(金子周平:九州大学教育学部准教授)#不安との向き合い方
心の辛さと向き合うために、さまざまな心理療法があります。みなさんは手紙を書く、ロールレタリングという心理療法をご存じでしょうか。自分の不安や悩みを見つめ直すのに、とても効果がある心理療法です。今回はそのロールレタリングについて、事例を通して理論、効果、実施方法などを、役割交換書簡法・ロールレタリング学会理事長の金子周平先生にお書きいただきました。
ロールレタリングとは、役割交換書簡法とも呼ばれる、少しばかり変わった心理療法です。「手紙」を用いる方法なのですが、その手紙が書いた相手に実際に届けられることはありません。「投函しない手紙」という形式を用いて、様々な心の作業を進めていく方法なのです。
この技法は、元々は日本の少年院の中で、母親との間に強い葛藤を抱えていた少年とその担当の法務教官の間で生まれました。法務教官は少年に、どうしても消化できないその気持ちを、母親に宛てて書くように言いました。母親に対して溜まっていた怒りなどの感情が、堰を切ったように表現されていきました。そして、それが一段落すると、少年は母親の置かれていた複雑な立場にも目を向けられるようになっていたのです。法務教官はさらに、もし母親が少年の書いた手紙を受け取ったとしたらどのような返事を返すか、母親の立場になって自分への手紙を書くことを勧めました。
ロールレタリングは、このように一人二役、時にはそれ以上の役割の間で交わされる手紙を書いていく方法です。現在では、少年院以外の心理療法の中でも、また学校教育等においても実践されるようになってきました。
さて、今回のテーマは「不安との向き合い方」です。不安には様々なものがありますから、それぞれ異なった不安を抱え、ロールレタリングを通してそこから抜け出すきっかけを得た3つの架空事例を紹介します。
子育ての不安を抱える洋子の事例
相談機関を訪れた専業主婦の立花洋子(31歳)は、不登校傾向の小学生の娘との関係について、「自分が過保護すぎるのかもしれません」と話し始めた。子どもが危ない目に遭わないかが不安で目を離せない、目が届かないと心配なので友達の家にも行かせたくないと話した。カウンセリングを続けるうちに、洋子自身の幼少期の話になった。洋子の両親は休日も外出が多く、あまり面倒をみてもらった覚えがないという。母親の話をすると決まって最後に、「この話をしても虚しいだけ」と言うものの、「家にずっと母親がいなかった」ことはカウンセリングの中で繰り返し話された。カウンセラーは洋子に、小学校の頃の自分に戻って、当時の母親に手紙を書くことを勧めた。洋子は、母親が小学校の行事にもずっと来てくれなかったことの不満を、小学生になりきった言葉で勢いよく書いた。洋子は、次のカウンセリングまでの間にも母親への手紙を書いて持参した。カウンセラーが感想を尋ねると、洋子は「母親も、私のことを気にかけてはくれていたと思うけれど、不器用だったんだと思う」と話した。また、小学校の頃、仕事前に化粧をしていた母親のところに洋子が行くと、母親は機嫌が良かったのか、化粧をしたいと言った洋子にも口紅をつけてくれたこと、その時に母親が笑って洋子の顔を見て「洋子…」と名前を呼んだことを思い出したと話し、「とても嬉しかった」と笑った。洋子は母親に対する思いを「もっと自分のことを見ていて欲しかった」と話した。
数回後のカウンセリングでは、母親とのロールレタリングをした後から、子育てについて「少し力が抜けた感じ」と話した。「自分は母親のようにはならない、子どものことをちゃんと見てあげたい」と知らず知らず思っていたが、「私の気持ちは、娘にも十分に伝わっているから大丈夫」と思えるようになったと話した。
情けない自分を責める浩介の事例
地元では有名な会社に勤務する山本浩介(42歳)は、抑うつ状態となったことから、心療内科のクリニックを受診した。カウンセリングも希望したため、併設のカウンセリングルームにやってきた。浩介は日に焼けており、健康的な雰囲気が残る男性だった。公安職の祖父の影響で、浩介も中学生から大学生まで剣道を続けてきた。大学卒業後は現在の会社に就職した。元来、明るく面倒見の良い性格であったため、営業職の仕事にもすぐに慣れ、後輩たちをよく誘っては飲みに連れていくなどしていた。結婚して子どもも生まれ、仕事上の悩みもなかったという。営業成績にも職場の人間関係にも自信があった。しかし1年半ほど前、突然、後輩の一人からパワー・ハラスメントで訴えられることになった。浩介は、後輩に飲み会を強要したこともなく、わきまえていたつもりであった。それだけに、その後にも複数の後輩から声が上がり、厳重注意を受けたことは、浩介にとってはショックが強かった。また程なくして配置換えになり、営業の表舞台から「引退を余儀なくされた」ように感じたと言う。新しい部署では、以前のように職場での人間関係を積極的に持たなくなった。仕事の意欲も低くなり、通勤自体が苦痛になった。産業医との面談で、うつ状態であることが伝えられた。このままでは仕事ができない自分になってしまう不安を解決したいと思い、自ら心療内科クリニックを受診した。
カウンセリングが続いた数ヶ月後、「今の部署で何もしていない自分が情けない。無駄だと思う」という浩介に、カウンセラーは「営業部にいた頃の自分から今の自分への手紙」を書いてみるロールレタリングを提案した。浩介は「やってみます」と即答し、いかに現在の自分がダメで、情けなく、不甲斐ないかを書いた。「生きていても意味がない」とも書いた。現在の自分の立場からの返事の手紙を書いても、ほとんど同じ内容の、自分の情けなさや不甲斐なさを書いた。徐々に、現在の自分からの手紙に、営業部の自分に対する「周りが見えていないくせに」、「正論ばかり」、「空回り」などの反論が出てくるようになった。カウンセラーは、それぞれの立場で言いたいことを思いきり書くように励ました。数回後のカウンセリングで、浩介は「ずいぶん落ち着いてきた」と報告するようになった。詳しく尋ねると、「今までずっと、強いこと、負けないこと、どんな状況でも融通を利かせることにしか価値がないと思ってきた」こと、「今の自分の方が視野が広く、地に足がついている」ことを話した。また営業部には戻りたい気持ちもあるが、そう焦る必要もないという心境だと話した。
漠然とした不安で物事が決められない美樹の事例
介護職をしている徳岡美樹(28歳)は、漠然とした不安で動けなくなるという悩みを抱えて、家族の紹介で相談機関のカウンセリングにやってきた。美樹はカウンセリングでほとんど話さなかったが、物事を決めることができないことだけは話した。カウンセリング自体についても続けるかやめるかを「決められない」と話した。しかし次のカウンセリングで、美樹は「カウンセリングは一度お休みにしたい」と話した。カウンセラーが詳しく尋ねると、次のような話をした。
前回のカウンセリングの後に、美樹は地域の市民向けの研修会で、ロールレタリングの体験をした。そこでは、講師の先生から、自分のことをよく分かってくれ、どのようなことでも受け入れてくれる「受容的な人物」を思い浮かべるように言われた。美樹は、小学校の時の保健室の山中順子先生を思い出した。おばあちゃんのような先生で、よくお腹を壊していた美樹に対してとても優しかった。山中先生は、他の怖い先生たちの中でも堂々としていて、美樹はそのことがとても嬉しかった。
研修会の中で山中先生に手紙を書き、山中先生からの手紙も自分で書いた。山中先生になりきって「カウンセリングは、今のあなたには必要ないよ。もっと自分でじっくり時間をかけるんだよ」と書いた。そんな言葉が出てくるとは思わなかったが、不思議なほど納得して、「ああ、その通りだ」と思えたという話をした。
3つの事例から
さて、ここまで3つの架空事例を紹介してきました。少しだけ解説をしますと、洋子の事例でロールレタリングのテーマになっているのは、いわゆる「心残りの作業(Unfinished Business)」です。手紙を通して、心の中に残っていた思いを表現して、途中で終わっていた体験を取り戻していくのです。手放していくと表現してもいいかもしれません。浩介の事例でテーマになっているのは「強い自分と弱い自分」の葛藤とその統合です。美樹の事例のテーマは、「セルフケア」です。自分で自分のことを大切にし、自分の気持ちをそのまま認めていく作業になっています。
ロールレタリングの実際
ロールレタリングの実施方法はそれほど難しくはありません。紙とペンと、十分に余裕のある時間を準備すればよいのです。しかし注意点がいくつかあります。1)焦って書き始めずに、まずは誰から誰に書いたら良いかを決めるのに時間をかけてください。この作業を大切にすることで、手紙を書かなくとも気持ちの整理ができることもあります。2)実際のコミュニケーションと心の作業としてのコミュニケーションを分けて、書いた手紙を実際の相手に送ったり、見せたりしないようにしてください。ロールレタリングは相手に手紙を送る練習ではなく、あくまでもその人の心の作業なのです。3)頭でストーリーを考えたり展開を予想したりせず、気持ちのままに自由に書くように心がけてください。4)(浩介の事例のように)強い自分と弱い自分のような構図になった時は、行き詰まることを恐れずに、思いきり行き詰まってみてください。その体験が大切だとよく言われます。5)(美樹の事例のように)「受容的な人物」や「理想の相談相手」に手紙を書くときには、恋人よりは、老賢者のような雰囲気の人の方が良いです。
そして、最後に重要なことですが、無理をして行わないことです。少し試してみて、嫌な感じが強かったり、辛いことを思い出したり、混乱してしまう場合にはやめてください。こころの作業を一人で進めていく方法はいくつもありますし、カウンセリングなどの相談機関で安全に進めていくこともできます。
執筆者プロフィール
金子周平(かねこ・しゅうへい)
九州大学教育学部准教授。専門は臨床心理学。特に人間性心理学の心理療法とグループ・アプローチ、役割交換書簡法・ロールレタリングについての研究を行なっている。
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