「正義の女神は目隠しをしない」? 心理学は法律とどう関わるか(研究者:向井智哉)
「目隠し」と「司法の正しさ」
日本の最高裁判所には、正義を司る女神テミスの像が飾られています。$${^1}$$この像は、日本の最高裁判所に限らず世界各国の司法機関に飾られているものですが、その意匠には、目隠しを付けた像と目隠しを外した像の2つがあると言われています。$${^2}$$
これら2種類の像はある意味でどちらも「司法の正しさ」を象徴していると言えます。つまり、目隠しを付けた像は、「見るべきでないものを見ない」、つまり、裁かれる人がどれほど偉い人であろうとも(あるいは逆にどれほど「卑しい」人であろうとも)それには目をつぶり、しかるべき裁きを下すという意味での「正しさ」を示しています。他方、目隠しを外した像は、「見るべきものを見る」、つまり、何によっても目を曇らされず裁きを下すという意味での「正しさ」を象徴しています。
このように、目隠しを付けた像と外した像は、「見るべきでないものを見ない」と「見るべきものを見る」という司法に向けられた2つの要請を表現していると言うことができそうです。
「司法の正しさ」を担保する法的な決まり事
法律では、このような「正しい判断」がなされるよう、さまざまな決まり事が定められています。一例をあげれば、裁判官や当事者(被害者や被告人など)の親族である場合には、自分の利害関係や感情に引きずられてしまう可能性があるため、その人は裁判に加わることができないとされています。
また、裁判官は必ず被告人と面と向かって裁判をすることが定められており、余計な思い込みを持たないよう、実際に会うまではその被告人についての情報を極力得てはならない(起訴状のみしか見てはならず、起訴状には余計なことを書いてはいけない)とされています。
これらの決まりは、自分の利害関係や感情、思い込みに対して「目隠しをする」ための決まり事です。
ゆがみやすい判断
ただ、これらの法律上の決まり事が「正しい判断」をするために十分かと言えば、必ずしもそうとは言えないようであることがこれまでの心理学の研究では繰り返し示されています。関連する研究としてはたとえば以下のようなものがあります。
これらの研究は、被告人の身体的魅力(顔の良さ)や被告人に偶然生じた幸運がその被告人に対する刑罰を大きく左右することを示しています。(被告人の不幸についてはもしかすると「それもどの程度の量刑を下すかを決める時に考慮するべきだ」と考える人もいるかもしれませんが)少なくとも被告人の顔の良さは見るべきではない、つまりそれに対しては「目隠しをする」べきだと考える人が多いのではないでしょうか。
しかし、(同じくもしかすると被告人の幸運 については、「裁判と関係のない情報を裁判に出すことを禁じる」という形で制度的な「目隠し」を付けることができるかもしれませんが)、裁判官(裁判員)は常に被告人と面と向かって裁判をするという決まりがある以上、被告人の身体的魅力についての情報を遮断することは困難です。
そのため、このような情報によって裁判の結果がゆがめられないようにするためには、「人はそのような情報に影響されてしまうことがある」といった情報提供というソフトな手段で対処することがあり得る選択肢になります。
法心理学
このような選択肢について研究してきた学問分野の1つとして、法心理学$${^5}$$という分野があります。法心理学とは、簡単に言えば、法律と関係する人間の心理を扱う学問分野であり、基本的には法学と心理学を横断した学際分野と見ることができます。$${^6}$$
個別の研究テーマとしては、上であげたような2つの研究で扱われているテーマのほか、たとえばどうすれば供述者の言っていることが正しいかどうかを判断できるのか、事件の目撃者の記憶はどの程度正確なのか、人はなぜ犯罪者に対して厳しい刑罰を求めるのか、などさまざまなものが含まれます。
法律と心理学の関わりというテーマ自体には長い歴史がありますが、学会が設立されたのは2001年になってからのことです。$${^7}$$その意味ではまだまだ若い分野で、会員数や論文の投稿数も決して多くありませんが$${^8}$$、2011年から2015年には「法と人間科学」として新学術領域に採択されるなど、着実に成果をあげてきた分野でもあります。
法学と心理学の協働の課題
とはいえ、法心理学が法学と心理学を横断する学際的な分野であるということに主に起因して、いくつかの課題も見えるようになってきています。分野の円滑な成長を阻んでいるように見受けられる課題はいくつもありますが、紙幅の都合上ここでは両分野の認識(重視するもの)の違い、特に「心理学は全般的な傾向を明らかにすることを目指すことが多いが、法律では逆に個別的な事案における判断の妥当性を明らかにすることを目指すことが多い」という違いを取り上げます。$${^9}$$
心理学はよく「人の心を理解するための学問」などと言われます。この言い方自体が誤っているというわけではありませんが、(心理学を少し専門的に勉強した人であれば誰でも知っているように)現代の心理学では、個別の人ではなく集団としての人々についてのデータを統計的に分析し、その結果に基づいて議論をします。たとえば、上であげた研究(猪八重他, 2009)でも、着目されているのは「ある個別の人が顔の良い被告人に有利な判断をしたか」ではなく、「顔の良い被告人の写真を提示するグループと、顔の良くない被告人の写真を提示するグループをつくり、2つのグループの量刑の平均値に統計的な差があるか」です。
心理学がこのように平均化・集団化されたデータに着目することには理由があります。かつての黎明期の心理学は、すべての人に共通して見られる「法則」が存在すると考え、そのような法則性を見出すことを自らの使命としていました。しかし、研究が進むにつれて、人間の心には(たとえば物理法則と同じようなレベルでの)法則性は見出しがたいことが明らかになってきました。そのため、現代の心理学は、そのような法則性を発見することをかなりの程度諦め、人々に平均的に見られる傾向性を発見することに焦点を移すようになっています。
このように心理学の焦点の転換には理由がありますが、これは同時に法律を専門とする研究者や実務家(弁護士など)を失望させてもいます。というのも、これらの人々(特に実務家)には、「この被告人(被害者、目撃者など)は本当のことを言っているのか」、「この裁判官(裁判員)は、誤った情報によって誤った判断をしていないか」という個別の事案についての「答え」を知りたいという強いニーズがあります。しかし、上で述べたように心理学は平均化された「人々」を主な研究テーマとしている以上、このような個別の判断について結論を下すことは通常極めて困難だからです。このように現在の主流の心理学と法律を専門とする研究者・実務家のニーズの間にはズレがあります。
このようなズレに対しては大きく2つのアプローチがあり得ます。1つは、ズレをなくすことを諦め、人を人々として集団化することが許容される領域に研究の範囲を限定するアプローチです。そのような領域としてはたとえば立法(法律の制定)があります。
法律にはある種の暴力性があります。たとえば選挙権を例にとると、現在の日本の法律では選挙権は18歳以上の人に与えられています。この決まりは、「18歳未満の人はいまだ成長途中であるため、18歳以上の人ほど『正しく』選挙権を行使できない」という前提に基づくものですが、具体的な人について考えてみれば、この前提が常に正しいわけではないことは明らかです。たとえば64歳の人よりも判断能力の高い15歳も、13歳の人よりも判断能力の低い45歳もいくらでもいるはずです(し、私自身も18歳未満の人より常に「正しい」判断ができる自信はまったくありません)。しかし、このような個別の相違があるにもかかわらず、法律はある種暴力的に、18歳を選挙権の区切りとしており、人を人々として集団化することを許容していると見ることができます。
これに対して、上で触れたような裁判においては、(もちろん法律は前提となりますが、その範囲内においては)当事者がどのようなことをしたか、その人がどのような人であるのか、といった個別的な事情に基づいて判断がされます。この点において、裁判は、人々として集団化することがより許容されにくい領域であると考えることができます。
これらの領域のうち、前者の集団化が許容される領域に焦点を絞り、それに即した統計的な(計量的な)手法を用いるのがこの第一のアプローチです。
他方の2つ目のアプローチは、逆に統計的な手法を諦め、ズレを縮めることを目指すアプローチです。上で述べたように、現在の心理学では統計的な手法を用いることが主流ですが、必ずしもすべての心理学者が統計的な手法を用いているわけではなく、質的な手法(インタビューや観察など)を用いる研究者も少数ながら存在します。$${^{10}}$$このような手法を積極的に用いて、個別の事案について考察を深めていくのがこのアプローチです。
これらのアプローチはどちらか一方だけが「正しい」というものではなく、さらに言えば、矛盾するものでもないように思われます。$${^{11}}$$おそらく(少なくともしばらくの間は)現在の心理学の主流と一致した第一のアプローチが法心理学においても主流となり続ける可能性が高いと思われますが、第二のアプローチをとった研究も増えていくことが望ましいように思います。
まとめ
この文章の最初で触れた通り、司法にはその判断が正しくあることが求められます。正しい判断のためには色々な決まり事が法律上定められていますが、心理学の研究ではこのような決まり事だけでは十分でない可能性が示唆されており、そのような可能性については法心理学ではさまざまな研究がなされてきました。しかしその法心理学にも課題があり、今後の研究が求められています。
ところで、上で触れた最高裁判所に飾られている女神像は、目隠しをしていないタイプの女神像です。このような意匠は、「見るべきものを見ること」を象徴していると上では書きましたが、これは同時に(目隠しをした女神像が裏返しで象徴しているように)「見るべきでないものを見てしまっていること」を象徴していると見ることもできます。日本の司法を体現するこの女神像が「日本の司法が見るべきものを正しく見ていること」を象徴することになるのか、それとも「見るべきでないものまで見てしまっていること」を象徴することになるのか。その行く末はもしかすると、今後の法心理学の発展にかかっているのかもしれません。
脚注
この像の写真は次のURLから見ることができます。https://www.courts.go.jp/vc-files/courts/file5/shihounomadoH29_7.pdf
村上裕 (1997). 目隠しされた正義の女神 森征一・岩谷十郎 (編著) 法と正義のイコノロジー(pp. 45-85) 慶應義塾大学出版会
猪八重涼子・深田博己・樋口匡貴・井邑智哉 (2009). 被告人の身体的魅力が裁判員の判断に及ぼす影響 広島大学心理学研究, 9, 247–63. https://doi.org/10.15027/29214
綿村英一郎 (2012). 犯罪事実とは無関係な情報が一般市民の量刑判断に及ぼす影響――公正世界観からの検討―― 応用心理学研究, 38(2), 145–46. https://j-aap.jp/JJAP/JJAP_382_145-146.pdf
「法と心理学」「司法心理学」などとも呼ばれます。どの名前で呼んでも特に違いはありません。
ただし必ずしも法学と心理学だけに限定されるわけではありません。藤田政博 (編著)(2013). 法と心理学 法律文化社
仲 真紀子 (2019). 法と心理学のこれまでとこれから 法と心理, 19, 13-18. https://doi.org/10.20792/jjlawpsychology.19.1_13
学会のホームページは次の通りです。https://jslp.jp/。雑誌に掲載されている論文の大部分は次のURLから見ることができます。https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjlawpsychology/-char/ja
他の課題としては、両分野の学術分野の慣行の違い(研究成果の発表媒体の違い、査読制度の有無、共同研究に対する認識の違いなど)、両分野の研究者の他分野への理解の不足(単純な知識不足や研究者としてのスタンスの違い)などが考えられます。
この点については、同じく金子書房のnoteに掲載されている五十嵐先生の論考が参考になります。https://www.note.kanekoshobo.co.jp/n/nd9331e88f8c0
私自身は第一のアプローチをとった研究をすることがほとんどですが、それは単純にそのアプローチに適合的な手法(統計的な手法)に慣れているという偶然的な理由によるものであって、第一のアプローチのほうが原理的に優れているとはまったく考えていません。