人の心は「測れる」のか?――心理測定における「測定」と「心」(公益社団法人国際経済労働研究所/荒川出版会:仲嶺真) #心理統計を探検する
潜在変数モデルが仮定する「心の測定」
心理測定(とくに心理尺度による「測定」)では、多くの場合、潜在変数モデル(結果指標モデル、反映的モデル)が仮定されます。潜在変数モデルとは、複数の項目反応に共通の原因があり、諸項目への反応はその原因を反映しているとする考え方です(図1:Borsboom, 2005 仲嶺監訳 2022)。
しかし、この考え方に基づく「心の測定」は、少なくとも二つの理由から擁護するのが難しいと考えています。一つは、これを測定と呼べるのかという点です。もう一つは、他者の心についての懐疑論は理論としては成立しがたい(古田, 2022)という点です。
測定と呼ぶことの難しさについて、あるいは測定と統計の混同
測定とは、極めて簡潔に言えば、測定対象である性質を数値で明確に表現することです。たとえば、棒の長さであれば、「長さ」という性質(長い、短い、など)を、数値(20、10、など)を使って表現します。そして、性質と数値の対応関係は明確です(図2)[1]。
「何を当たり前のことを」と思うかもしれませんが、潜在変数モデルに基づく「測定」とは明らかに違います。測定の場合、「長さ」は数字と1対1に対応し、複数の数字の共通原因が「長さ」であるとはなりません。
また、測定の場合、「長さ」と数字の対応関係は明確ですが、潜在変数モデルに基づく「測定」では、「測定」された数値と性質との対応関係が明確ではありません。たとえば、人生満足度を「測定」したとします。AさんもBさんも人生満足度が「高い」とき、その数値は同じ5でよいのでしょうか(図3)。もしかしたら、Aさんの人生満足度「高い」は、Bさんの人生満足度「高い」よりも少し「低い」かもしれません。もしかしたら、Aさんの人生満足度「高い」は、Cさんの人生満足度「低い」と同じくらいかもしれません。社会的比較に関する研究を踏まえると、このようなことは十分にありえます。
また、潜在変数モデルに基づく「測定」では、たとえば複数の項目反応に対して因子分析等をした結果、理論通りの因子(数)が得られたこと(因子的妥当性)を根拠に「心の測定」ができているとされることがあります。しかし、これは測定と統計の混同です(Abran, Desharnais, Cuadrad-Gallego, 2012; Fisher, 2010; Uher, 2021)。「AさんとBさんの「高い」は同じで、その数値は5でよい」(測定が正しく行えている)という前提がなければ、統計分析の結果は意味を持ちません(小杉, 2023)。統計は測定値の正しさを前提としている以上、統計(分析)に基づいて測定の正しさを担保することは基本的にはできないと考えられます(図4; Borsboom, 2005 仲嶺監訳 2022も参照)。
このように、潜在変数モデルに基づく「測定」を(心の)測定と呼ぶのは難しいと考えられます[2]。
他者の心の懐疑論について、あるいは行動と心の関係
潜在変数モデルとは、複数の項目反応に共通の原因があり、諸項目への反応はその原因を反映しているとする考え方です。この考え方の基盤には、「他者の心は行動から推測するしかない」という考えがあります。この考えは、哲学において「懐疑論」と呼ばれる立場の一つです(古田, 2022)。しかし、「他者の心は行動から推測するしかない」という行動と心の関係は、どこまで本当なのでしょうか。いくつかの例から考えてみたいと思います。
この例において、みなが何かについて「カブト虫である」と言っています。しかし、「カブト虫である」と言われる何かはまったく共通していないかもしれません(存在すらしていないかもしれません)。ここで「カブト虫」(と言われる何か)が心で、「カブト虫である」と言うことが行動だと考えてみると、この例からわかるのは、心と行動には対応関係がない(かもしれない)ということです[3]。
この例において、なぜYはXに短剣を贈ったのでしょうか。Xの困惑が示すように、一見するとYのこの行為はまったく意味不明です。しかし、Yの町では、この短剣に「未来を切り拓くもの」という意味があったとしたらどうでしょうか。短剣を贈るという行為には、Yの祈りや願い、あるいは情があることがみえてくるかと思います。この例からわかるのは、行動と心をつなぐ際には背景とその共有が必要であるということです[4]。
この例において、彼は彼女に好意を抱いているのでしょうか。それとも、もはや好意はなく、惰性で付き合っているのでしょうか。たしかに彼は彼女に対して好意がないようにもみえます。一方で、このような付き合い方は、彼女に甘え、心を許しているからこその行為であるとみることもできそうです。つまり、ある行動を「好意の存在」とみるか、「好意の不在」とみるかには曖昧さが伴います。この例からわかるのは、行動と心をつなぐ際には不確実性が存在するということです(cf. 谷田, 2019, 2021)。
以上、三つの例を通して、行動と心との関係を考えてきました。改めて、わかったことを整理しておきます。例1からみえてきたのは、他者の心と行動には対応関係がない(かもしれない)ということでした。そのため、行動から心を推測することは基本的にはできないと考えられます。しかし、例2からわかったのは、背景が共有されていれば、行動と心はつながるということでした。これは、行動の裏に心がある(行動から心を推測する)ということではありません(それでは例1からわかったことに反してしまいます)。どのような背景を踏まえているかによって、行動が意味する心が異なるということです。言い換えると、背景を共有することによって、行動に心が宿るということです。ただし、背景を共有したとしても、一つの行動に同じ心が宿るわけではありません。ある行動がどのような心を意味するかには、常に曖昧さが伴うからです。これは例3からわかったことです。
これで先の問い「『他者の心は行動から推測するしかない』という行動と心の関係はどこまで本当なのか」に一応の回答が出せます。すなわち、「他者の心は行動から推測するしかない」は、潜在変数モデルが想定するように、行動が心を反映していると考えると正しくありません。しかし、行動を見聞きすることが心を知ることであるという点では正しいといえます。ただし、その際、その行動が意味することを事前に背景として知っておかねばなりませんし、また、知っていたとしても、ある行動に宿る心は常に複数あります。行動と心の関係はこのようなものであると考えられます。
「心を測る」はいかに可能なのか
上記の議論に基づいたとき、「心を測る」はいかなるものになるのでしょうか。十全な議論・説明をする能力が今の私にはまだないため、素描だけを描いておきたいと思います。
まず、「心を測る」の「測る」とは、物の量を測るという場合の測る(=計量、測定)ではなく、「あの人の感じていることはこういうことだろうな」というような、推しはかるという意味での「測る」になるといえます。そして、推しはかるためには行動にどのような心が宿っているのかを把握する必要があるため、この把握が「心を測る」ための前提になるでしょう。ただし、行動と心の関係には曖昧さが伴うことを踏まえると、この把握が失敗するときもあります。そのため、「この把握で問題なさそうだ」という論拠をできるだけ積み上げることが差し当たり重要になるでしょう。心理学における「心を測る」とは、このような営みになると考えられます。
素描段階ではありますが、このような「心を測る」の捉え方は、妥当性の統一見解的定義と言われることもあるStandards(AERA et al., 2014)の妥当性観「妥当性とは、蓄積された証拠と理論がテストの特定の使用案に対するテスト得点の特定の解釈を支持する程度である」と整合的であると考えています[5]。また、現行の心理学で実施されている「心理測定」とも整合的になると考えていますし、むしろ、このような「心を測る」の捉え方のほうが、心理学が「心理測定」と称して行っていることをうまく説明できると考えています。この説明を精緻化していくことが私の今後の課題ですが、それが叶ったとき、「心理測定」は心理判断ないしは心理評価と称されることになり、「心を測る」という心理学の営みがより豊かになると信じています。
脚注
このときの「長い」「短い」という言葉による表現は、相対的に決まるものです。というのも、正確に言えば「長い」「短い」という言葉による表現は、長さという性質に対する言語による表現であり、その表現は文脈に応じて変わるからです。この言語による表現を数値による表現で置き換えたものが測定ですが、しかし、測定においては性質に対して数値が明確に割り当てられて表現されます。
Eronen(2024)に基づけば、ここで測定と呼んでいるものはハード測定、「測定」と呼んでいるものはソフト測定に相当します。しかし、そもそも原理的に異なるものを同じ用語で呼ぶのは、たとえ形容詞が付いていたとしても、ジングル誤謬(ふたつの異なるものが同じであるという誤った仮定)を引き起こすので(ジングル誤謬については小塩, 2021参照)、別名で呼ぶべきであると私は考えています。
箱の中のカブト虫の例えは、一般には、「カブト虫」と呼ばれる何かは「カブト虫」という名の指示対象としての機能を果たさない(たとえば、痛みという名は痛みと呼ばれる指示対象を持つわけではない)ことを示す例として論じられます。ここでは、それを応用して考えています。
ちなみに、ネタバレになるので書けませんが、例2はあるゲームのストーリーが元ネタです。
ただし、Standardの妥当性観はいろいろな立場の折衷案的なものなので(Slaney, 2017 仲嶺訳 2024)、私の素描と一致しない妥当性の考え方も含まれています。
引用文献リスト
Abran, A., Desharnais, J., & Cuadrado‐Gallego, J. J. (2012). Measurement and quantification are not the same: ISO 15939 and ISO 9126. Journal of Software: Evolution and Process, 24(5), 585-601.
AERA, APA, & NCME (2014). Standards for educational and psychological testing. American Educational Research Association.
ボースブーム,D. 仲嶺 真(監訳)下司 忠大・三枝 高大・須藤 竜之介・武藤 拓之(訳)(2022).心を測る――現代の心理測定における諸問題―― 金子書房
Eronen, M. I. (2024). Causal complexity and psychological measurement. Philosophical Psychology, 1-16.
Fisher, W.P. Jr. (2010). Statistics and measurement: Clarifying the differences. Rasch Measurement Transactions, 23(4), 1229-1230.
古田 徹也(2022).このゲームにはゴールがない――ひとの心の哲学―― 筑摩書房
小杉 考司(2023).身長と体重を心理尺度で測る 金子書房note Retrieved June 3, 2024, from https://www.note.kanekoshobo.co.jp/n/n8d2d89f1984e
小塩 真司(2021).ジングルとジャングルができあがるまで Atsushi Oshio note Retrieved June 3, 2024, from https://note.com/atnote/n/n08625ecea7cc
スレイニー,K. 仲嶺 真(訳)(2024).心理学における構成概念を見つめ直す――歴史・哲学・実践の次元から―― 金子書房
谷田 雄毅(2019).第3のウィトゲンシュタインにおける心理学の哲学――振りをする概念の位置づけと物的/心的概念の区別をめぐって―― 哲学雑誌, 133(806), 131-147.
谷田 雄毅(2021).心的概念の不確実性の問題――ウィトゲンシュタインの「心理学の哲学」の観点から―― 科学基礎論研究, 49(1), 1-14.
Uher, J. (2021). Psychometrics is not measurement: Unraveling a fundamental misconception in quantitative psychology and the complex network of its underlying fallacies. Journal of Theoretical and Philosophical Psychology, 41(1), 58-84.
ウィトゲンシュタイン,L. 鬼界 彰夫(訳)(2020).哲学探究 講談社