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報われなかったという思いをどうするか~期待の「あきらめ」と自分の思い~(龍谷大学教授:内田利広) #心機一転こころの整理

自分の努力や思いが報われないことは、人生に多々あります。そんな思いが積み重なって来てしまったとき、どのように心の整理をしたらよいでしょうか。また、傍から見て、報われていないと思われる方には、どうかかわったらよいでしょうか。内田利広先生にお書きいただきました。

報われない気持ち

 私の方が仕事をしたのに、どうしてこんな評価なのであろう。今までこんなにいろいろなことをしてあげたのに、どうしてあの人は私のことを大切に思ってくれないのだろうか。このような報われない気持ちを持った人は多いのではないでしょうか。

 そこで報いとは何か、辞書で調べてみると「ある行為の結果として身にはね返ってくる事柄」と説明されています。また報いるとは、「受けたことに相当するお返しをする」と定義されています。したがって、報われないとは、ある行為をしたのにそれに対してはね返ってくるものがない、相当するお返しが返ってこない、ということになります。

 報われないと感じる時には、「自分の方が仕事をしたのに」とか「いろいろなことをしてあげたのに」というまずは自分の行為があります。そしてそれに相当するお返し(評価)が返ってこないということが重要になります。自分が他人よりたくさんの仕事を引き受けて行ったという思いやこんなにいろいろなことをしてあげたという思いがあります。そこには、当然それ相応の見返りがあるという期待が含まれます。このように人は誰かに何かをしたときに、それに対する返礼や評価を期待するものです。その期待について少し考えてみたいと思います。

他者への期待と報われなさ

 自分が人よりたくさんの仕事をした、他人がしたくない仕事まで引き受けた、ということはそれだけのことをやっているのでそれに対する評価や御礼が当然返ってくるだろうという期待が生じてきます。しかし、その際によく考えてみると、その評価や御礼が最初から返ってくるものという期待があって、自分が何かを行っていることがあります。それ故にその期待した見返りがないと、報われなかったと感じることがあるのではないでしょうか。

 多くの人は、自分が何かを行ったときに、それに対する感謝の気持ち、評価の言葉を期待するものです。しかし、その期待の程度は人によって異なるものではないでしょうか。期待が強いと、それだけ報われない思いが強くなり、期待がそれほど強くないと報われなかったという思いもそれほど高くないと考えられます。つまり、報われなかったと感じる時は、そこに自分は何を期待し、それはどれほどの強さであるかをまずは確かめてみることが大切になります。

 何かを行った時、特に他者のために行った場合は、それに報いる何かが返ってくるのではと期待してしまうものです。自分がこれだけのことをやったのだから感謝されたり、評価されるのは当たり前であるという期待が湧いてきます。また私がやっていることをきちんと認めてほしい、分かってほしいという思いも湧いてきます。この他者から評価されたい、感謝されたい、認めてほしいという期待が強いと、その見返りがなかった時の報われなさも強くなるのではないでしょうか。

期待の「あきらめ」をめぐって

 人はさまざまな期待を周りの人や状況に向けてしまうところがあります。しかしその期待したことはなかなか満たされず、報われない思いを感じることがあるのではないでしょうか。その際に大事なのは、まずは自分が何を期待していたかを「あきらめる」ことです。このあきらめるという言葉は多義的であり、期待を「諦める」という場合によく使いますが、もう一つ期待を「明らめる」という場合にも使います。明らめるとは、明らかにすることであり、これまでよく見えていなかったものや曖昧だったものを明らかにして理解していくということです(内田、2014)。

 期待の中には、さまざまな思い、願望が含まれており、自分のやったことに対して周りから感謝されたい、評価されたい、さらには自分の存在そのものを認めてほしい、自分がそれだけの労力を使ってやったのだからそのことを分かってほしい、といったようなさまざまな思いが複雑に絡み合いながら、期待が膨らんでいきます。期待が大きくなると、その分報われなかった時の落胆や悲しみも大きくなります。

 では、その期待を明らめるためにはどうすればいいのか。それは、自分が報われない思いを感じたときに、そこにどのような期待をしていたのかを誰かに語ることです。普段はあまり自覚していない自分の期待を言葉にしてみることで、その期待は少し違ったものになっていきます。つまり自分の期待をそのまま聞いてくれる人に話をすることで、自分がどのようなことを期待していたのかが次第に見えてきて明らかになります。そして自分がどれだけのことを他者に期待し求めていたかを客観的に眺めることで、少し冷静になり、自分がこんなことを求めていたのだなというのを自覚することで、期待を諦める(断念する)ことが可能になるのです。このように自分の期待を明らかにする中で、次第に諦めに至り、報われなかった、という思いも少し和らいでいくのではないかと思います。ただ、そこには自分の期待に含まれる人から認められたい願望や私の思いを言わなくても分かってほしいというような甘えのような感情もあります。期待を眺め、明らかにすることは、時に苦しくつらい作業になることもあるので、一人ではなかなか難しく、近くで寄り添ってありのままに聴いてくれる他者の存在が大切になると思います。

「明らめ」の先に何があるのか

 このように、自分の期待を眺めて、その期待を「明らめる」ことで、明らかになってくるのは、報われない感情が湧きあがるきっかけでもある「今までこんなにいろいろなことをしてあげたのに」という思いです。この表現には、自分が誰か周りや困っている人のために、多くのことをしてあげている、という強い気持ちが込められていることが予想されます。つまり、その行為は誰かのためにしてあげたことであると考えられ、人のために、相手が喜ぶのではないかと思って行っていることが多いのではないかと思われます。しかし、その行為は本当にその周りや相手にとって、助けになっているのか、役にたっているのか、明確ではありません。報われなかったという思いは、相手からそれにふさわしい見返りが返ってこないことにありますが、そもそもそのことを相手が望んでいなければ、感謝や見返りは返ってきません。それでも、何かをしてもらったら御礼をするのが当たり前ではという社会通念上の思いがあるかもしれませんが、それも相手次第のところもあり、それに一喜一憂しているとこちらが疲れてしまいます。このように、期待を「あきらめる」プロセスにおいて、何かを「してあげること」の危険性が次第に理解できるようになり、その期待に自分が感謝や見返りを求める気持ちが含まれるのであれば、それを一度脇において、自分が本当は何がしたかったのかを感じてみることが大切ではと思われます。

報われない気持ちと自分の思いを大事にすること

 自分が仕事や作業を行って、何かをなした時に、それは何のために、誰のために行っているのかを少し考えてみるといいかもしれません。自分が何かをやろうと思ったら、それは誰か他の人のためでもなく、また他の人の役に立ちたいというわけでもなく自分がそれをやろうと思ったからやっているのだ、という感覚を持てるといいのではないでしょうか。つまり、今自分がやっているのは、自分のために、自分がやりたいからやっているのだという感覚を持って行っていると自覚することで、物事はかなり異なったふうに見えてくることがあります。

 例えば、学校の掃除の時間に、周りの子はふざけて遊んだり、おしゃべりばかりして作業が進まないので、自分がその人たちの分まで広い場所を掃除しないといけなくなり、自分がその人たちの分まで掃除をしてあげている・・・・・・・のだと思うときがあります。そして、誰もそのことに対して感謝してくれないし、認めてもくれないと思うと、報われない感情が湧いてきます。他方で、周りの子は遊んだりおしゃべりしていても、別に自分はおしゃべりする必要もないし、この時間は掃除をする時間なのでと周りとは関係なしに自分は掃除をしようと思って行っている場合も考えられます。この場合は、自分が掃除をすることが何か報われないなと感じたりすることは少ないのではないでしょうか。周りからの評価や感謝を期待して、何かを行っていると、どうしても報われない感情が湧きやすくなるので、その期待をあきらめて、まず自分は何がしたいのか、なぜこれをやっているのかを少し意識してみるといいのではないでしょうか。そして、そこに何か見返りや感謝を求めているようなことであれば、そんなものを求めて人のために働いたり関わるのはむしろ避けた方がいいのかもしれません。つまり、いろいろな仕事をしたり、他の人がやらない分までやってしまうとき、それは自分が本当にやってもいいと感じているか、自分のためにやっていることなのか、自分の気持ちを少し確かめてみるのもいいではないでしょうか(自分の気持ちが分からないという場合は、前回の内田note参照)。

報われない思いが報われるとき

 そうはいっても、人は自分がやったことが誰かに評価され、認められ、感謝されることを望んでしまうこともあります。それは誰しもが思うことかもしれません。

 その時に、私は恩師の先生にいただいた言葉を思い出します。それは、『君は自分がやるべきことをきちんとやっていれば、それは誰かがきっと見ていてくれるから』というものでした。私は、その言葉を心の支えにして、周りのことはあまり意識せずに、自分のやりたいことは何か、自分は何ができるかを考えて、それだけを中心に据えてやって来ました。その中で、偶然誰かがどこかで私の活動や発言など見ておられる方がいて、声をかけてもらったり仕事の依頼をしていただいたりすることがたまにありました。その度に“なるほど、自分のやるべきことをやっていれば、誰かがちゃんと見てくれているのだな”というのを実感するようになりました。

 そして、今は誰かが自分の仕事をしっかりとしているのを見ると、声をかけたくなることがあります。朝、職場(大学)に行くと、朝早くから清掃の方が落ち葉をきれいに掃いておられます。その横を通るとき、私は「有難うございます、いつもお世話になります」と声をかけて通るようにしています。その清掃の方は、感謝されることを期待されているわけでもありませんし、報われないと思っているわけでもありません。それは自分の仕事だと思って黙々とされていますが、そういう時にこそ、私はその姿にただただ感謝し、有難うございますとつい声を掛けたくなるのです。そして、皆さんの周りにも、必ずあなたが行っていることを見ている人がいて、声はかけてくれることはないかもしれませんが、理解し見守ってくれている人がいるのではないかと思います。つまり、あなたが日々行っていることは、誰かが見てくれているので、報われているのです。

文献

「期待とあきらめの心理-親と子の関係をめぐる教育臨床」内田利広著 創元社 2014年

執筆者

内田利広(うちだ・としひろ)
龍谷大学教授、京都教育大学名誉教授。博士(心理学)。臨床心理士。公認心理師。専門は教育臨床心理学。スクールカウンセラーの活動や親子関係、児童思春期の子どもの心の問題を中心に研究と実践を行っている。所属学会は日本人間性心理学会、日本心理臨床学会、日本家族心理学会、日本フォーカシング協会など。

著書は『スクールカウンセラーの第一歩』、『期待とあきらめの心理』、『フォーカシング指向心理療法の基礎』(いずれも創元社)、『母と娘の心理臨床』、『はじめて学ぶ生徒指導・教育相談(共編著)』(いずれも金子書房)など。

著書

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