「ワンペン、ワンチョコレート」について思うこと(著述家・編集者・写真家:山本高樹)#葛藤するということ
十数年前から、インド北部のチベット文化圏、ラダックでの取材に取り組んでいる。
パキスタンや中国との未確定の国境に接するこの土地は、ヒマラヤ山脈の西外れに位置していて、平均標高は3500メートルにも達する。一年を通じて雨は非常に少なく、人々はわずかな雪解け水を利用して麦や根菜を栽培しながら、家畜たちとともに、つましい生活を送っている。
ラダック全域の人口は、30万人足らず。中心地であるレーの街には5万人ほどの住民が集まっているが、それ以外の人々は、各地に点在する村々で暮らしている。インダス川沿いには住民1000人以上の大きな村もあるが、山間部では、わずか数軒の家しかない集落も珍しくない。
そうした山間部の小さな集落を、時折、取材で訪れることがある。日干し煉瓦と石と木材で建てられた、古めかしい家々。それらの屋根には、長い冬に備えて、家畜たちの餌となる干し草や、ストーブの燃料にするための薪や乾燥させた家畜の糞が、たっぷり積まれている。猫の額ほどのささやかな畑からは、村人たちがかろうじて暮らしていくのに必要な分の作物しか穫れないように見える。
家々の陰から、ぱあっと何人かの子供たちが飛び出してきて、足元に駆け寄り、口々に言う。
「ハロー! ワンペン?! ワンチョコレート?!」
ペンを1本ちょうだい、チョコレートを1つちょうだい、という意味なのだろう。どちらも、彼らにあげられるものは持ち合わせていない。「ミドゥク(ないよ)」と僕がラダック語で答えると、子供たちはびっくりしながらも、「なあんだ」と少しつまらなさそうな顔をして、また、ぱあっと走り去っていく。
ラダックに限らず、世界各地の辺境地帯を旅していると、こんな風に「ワンペン、ワンチョコレート」と声をかけられることは、結構多い。土地によって状況は違うだろうが、ラダックの場合、子供たちはそこまで困ってはいないし、お腹を空かせてもいない。旅行者を見かけたら声をかけて、何かもらえればラッキー、というくらいにしか思っていないだろう。
ただ、ペンも、チョコレートも、辺境の地で生まれ育った彼らにとっては、それなりに貴重で珍しいものであることも確かだ。一方、日本人である僕は、彼らに比べて、物質的に恵まれていて、何でもたやすく手に入れられる立場にいる。
僕はラダックの子供たちに、ペンやチョコレートやその他いろいろなものを、もっと気前よく配ってあげるべきなのだろうか? 辺境の地を旅していて、そんな葛藤を感じたことのある人は、少なくないのではないかと思う。
子供たちにねだられるがままに、ペンやチョコレートをその場で気前よく大盤振る舞いしたら、その瞬間、子供たちはもちろん喜ぶ。でも、何日か、何週間か後に、別の旅行者が村に来たら、子供たちはまた「ワンペン! ワンチョコレート!」と言いながら、旅行者を取り囲むに違いない。その際限ないくりかえしは、ラダックの子供たちの心に、どんな影響をもたらすだろうか。
その場限りのご機嫌取りのためだけに、子供たちにペンやチョコレートをばらまき与えることは、彼らをどこかで見下してしまう心理につながりはしないだろうか。ペンやチョコレートを受け取る子供たちの自尊心も、回を重ねるうちにすり減っていって、そのうち、すっかり損なわれてしまうかもしれない。
僕は、たとえ相手が物質的にあまり豊かではない生活をしている子供たちであっても、同じ人間同士として、対等な立場で向き合うべきだと思っている。
以前、ラダックで知り合った一人の日本人男性は、辺境の村を訪れた時、学校を訪ねて、先生にまとまった数の鉛筆を渡して、生徒たちに配ってほしいと頼んでいた。良いアイデアだと思う。そうすれば、村の子供たち全員に平等に鉛筆が行き渡って、それぞれの勉強に確実に役立ててもらえる。
別の日本人の知人は、もし、旅先で子供たちにお菓子をあげるなら、一方的に与えるのではなく、「一緒に食べようよ」と誘って、同じお菓子の袋から、その場にいる子供たち全員と分け合って食べるといいのでは、と提案してくれた。そのお菓子も、よそから持ってきたものではなく、できればその村の商店などで買い求めたものの方がいい、と。これもなかなか良いアイデアだと思う。
辺境の地で生まれ育った子供たちを、自身と対等な立場で扱うことは、彼らの尊厳を守り育むことにつながっていく。場当たり的なご機嫌取りで満足するのではなく、彼らの将来に少しでもプラスになるような向き合い方をしていくべきだと、僕は思う。
日本人の旅行者と子供たちとの交流をこれまで見てきた中で、個人的に素敵だなと感じたアイデアは、折り紙だ。紙の折り方を教えながら、鶴やら、兜やら、紙飛行機やらを一緒に作って遊ぶと、子供たちはみな目を輝かせながら、夢中になって紙を折り、出来上がりを互いに見せ合ってはしゃぐ。高価でも希少でもないけれど、見知らぬ旅人と一緒に作った折り紙の記憶は、子供たちの心のどこかしらに、ずっと残っていくような気がする。