親子の関係性における「自己と他者」:情緒的利用可能性の大切さ(東京大学教授:遠藤利彦)#自己と他者 異なる価値観への想像力
行き過ぎた「敏感性」の危うさ
従来、発達心理学の領域では、子どもの健全な心の発達を支え促す養育者側の要件として「敏感性」の重要性が強調されてきました。平たく言えば、敏感性とは、養育者が子どもの心身の状態および表情や発声といったシグナルを的確に読み取り、素早く応答してあげることを指して言います。そして、現にこれまでの多くの実証研究において、養育者の敏感性の高さが、概して、子どもとの安定した関係性の構築を可能ならしめ、子どもの社会情緒的発達全般にポジティヴな影響を及ぼし得ることが示されてきたと言えます。
しかし、子育て中の親や保育者などに、ただやみくもに敏感性が大切であるということだけを安易に伝えてしまうと、しばしばそこに大きな誤解を生じさせてしまうことがあります。敏感性を強調することが、時々、敏感性を通り越して、過敏さや時には要らぬお節介を助長させてしまうことがあるのです。すなわち、子どもからのシグナルを見逃してはいけない、迅速に応答してあげないといけないということばかりが強く意識されると、つい養育者は、みすみすシグナルを見逃して失敗するよりは、子どもからの自発的シグナルが実際に発信されているかどうかにかかわらず、子どものためになることならどんどんとやってあげた方がよいはずだと考えてしまう傾向があるようなのです。養育者における実際の敏感性の高さそれ自体は、子どもの発達に促進的に作用するのですが、それが、子どものためを思って、あれやこれやと先回りしていろいろなことをしてあげることがさも良いことだと勘違いされてしまうと、かえって逆効果を及ぼしかねないということです。
「情緒的利用可能性」の大切さ
上述したようなことが往々にして起こりがちだという認識の下で、最近、発達心理学の領域でとみに使われ始めている言葉に「情緒的利用可能性」があります。これは、ただ養育者の側がとにかく高い敏感性を備えていれば良いのだということではなく、当然、子ども一人ひとりに違いがあり、また同じ子どもでもその時々の状態に差異がある中で、養育者は、子どもが自分から求めてきた時に、その独自の個性を備えた子どもにとって、あるいはその時々で異なる状態にあるその子にとって、情緒的に利用可能な存在であれば良いということを強調する考え方です。加えて言えば、特に子どもが特にシグナルを発信してきていないのであれば、あえて子どもの活動に踏み込まず、温かく見護ることを良しとする考え方ということになります。言い換えれば、子どもが一人でいられていること、一人で何かをすることができていることを最大限、尊重する態度とも言えるかも知れません。
少し整理して言えば、「情緒的利用可能性」とは、子どもが、恐れや不安などの何らかの感情状態の直中にあり、何か助けを求めてシグナルを発信してきた時に的確に応じる「敏感性」と、逆に子どもがシグナルを発信してこない場合には極力、子どもの自律的な活動に干渉しない「非侵害性」から成り立っていると言えます。もっとも、シグナルを発信してこないからといって、まだ幼い子どもに対して何もしてあげないというのはあまりに冷たいのではないかと考える向きもあるかも知れません。しかし、侵害しないでいるということは、子どもに何ら気遣いをしないということではさらさらありません。実は、この概念には、「敏感性」と「非侵害性」に加えて、もう二つ、別種の要素も含まれています。その一つは、「環境の構造化」であり、子どもの直接的なやりとりの相手にならなくとも、言ってみれば、お芝居における「黒子」のように、子どもを取り巻く環境のあり方に配慮し、子どもの自発的な遊びや活動あるいは安全な生活全般を背後から下支えするということです。子どもの好みに応じた玩具や絵本の選択あるいは転倒予防のための家具の置き方の工夫など、養育者が、直接子どもと関わらなくても、子どもの発達促進のためにできることはたくさんあるはずです。もう一つの要素は、「情緒的な温かさ」であり、子どもの主体的な活動に対して、直接介入はせずに、離れたところからいわば「応援団」として、子どもに対して温かいエールを送り続けるということです。大人目線からすると、子ども一人では到底動かせないことがわかりきっている玩具に子どもが夢中になっている状況で、大人がそれに対して、すぐに動かせるよう手助けしてあげることは無論、容易な訳ですが、子どもが自分一人で何とかしようとしている限りは、それを尊重し、あえて手助けを控えて、温かく見護り、ただ微笑みを向けたり声援を送ったりすることも大切なことなのです。
この四つの要素がうまくかみ合っている時に、「情緒的利用可能性」は非常に高く実現されることになります。そして、この「情緒的利用可能性」がしっかりと成り立っている成育環境の下で、とりわけ、自律性を核とする健康な子どもの「自己」が確実に萌芽し、豊かに成長していくことになるのです。
「真の自己」と「偽りの自己」
繰り返しになりますが、「情緒的利用可能性」とは、子どもが送ってくるシグナルに敏感であると同時に、シグナルを送ってこない時にはあえて子どもの活動に踏み込まないでいることの重要性を強調する考え方です。しかし、私たち大人は概して、前者の敏感であるべきだということには注意が向くのですが、後者の踏み込まないでいることには相対的にあまり気が回らないような気がします。それどころか、敏感であろうとするあまり、子どもの後ろをついて回ったり、先回りしたりすることが多くなりがちなのかも知れません。
しかしながら、子どものために良かれと思ってついとってしまう大人のこうした行動のパターンが行き過ぎてしまうと、子どもの「自己」の発達において少し心配なことが時に生じてくることがあるようです。著名な精神医学者にR. D.レインという人がいるのですが、彼は、主著である『自己と他者』(志貴春彦・笠原嘉訳, みすず書房, 1975年)の中で、学校が終わって教室から出てきた小さな子どもを母親が校門で出迎えるというシーンを例にとって、四つの母子関係のパターンを描き、そのうちのどれが、子どもの「自己」の発達から見て最も危険であるかを読者に問いかけています。
四つのうちの一つは母子両者が同時に駆け寄り微笑ましく抱きつくという関係性で、他の三つはいずれも子どもが母親にあまり近づきたくない素振りを見せている関係性になっています。そして、その三つともで母親は、自分に対して不機嫌な様子を見せる子どもに「あなたはお母さんのことが好きじゃないの」と聞く訳ですが、そのうちの一つでは、その答として「うん、好きじゃない、嫌い」と言った子どもに対して、母親が「そうなの、わかったわ、とにかく帰りましょう」と言って帰ることになります。もう一つでは、やはり「うん、好きじゃない、嫌い」と答えた子どもに対して、母親がとても腹を立ててしまい「生意気言うんじゃない」と言って子どもをぶって泣かせてしまうことになります。そして、もう一つが、子どもが何か答えを言おうとする前に、母親が「そんなはずないよね、あなたはお母さんのことが大好きよね、お母さんはわかっているわ」と言ってきつく抱きしめ、何事もなかったかのように母子が手をつないで帰るというものになっています。
もし私たちがその場に居合わせた場合には、子どもの言動に対して直接、怒りをぶつけて子どもを泣かせてしまう母親のケースを望ましくないものと見てしまうかも知れません。しかし、レインは一番最後のケースこそが問題だと言うのです。なぜならば、そこでは、子ども自身の本当の気持ち、すなわち、この場合、たとえ一時的な感情であるにせよ、母親に対するいやだという気持ちが、まるで煙に巻かれるかのように、いつの間にか何もなかったことにされてしまい、しまいには母親の「あなたはお母さんのことが一番好き」という思い込みあるいは願望をまんまと引き受けさせられてしまっているからだというのです。この母親は、一見、子どもに優しく接しているように見えるのですが、実際は、子どもが内に秘めた他ならぬその子ども自身の心情を無視して、子どもの心に土足で踏み込み、果ては、親の気持ちを強引に押しつけてしまっていると考えることができます。
実のところ、レインだけではなく、D.W.ウィニコットやA.ミラーなど、これまで多くの臨床家が、こうした行き過ぎた親主導の働きかけの下、子どもが、自分自身の感情や欲求などからなる「真の自己」の発達を犠牲にし、養育者の期待や願望などからなる「偽りの自己」を身につけてしまった場合に、殊に思春期以降、不登校や引きこもりあるいは家庭内暴力を始め、様々な問題行動や心の病という悲劇が発生してしまう危険性について警鐘を鳴らしています。もちろん、これは極端なケースである訳ですが、日常的に後ろをついて回ったり先回りしたりして、子どもの心の世界につい過剰に踏み込んでしまいたくなる養育者の気持ちとかなりのところつながっているものと考えられます。いつも後ろから護られていたり先回りされたりしていれば確かに子どもが不快な感情を覚えることは少なくなるでしょう。しかし、その一方で、自分の不快な状態を何とかとしたいという動機づけや、その動機づけに駆られて、現に何とかしようとアクションを起こすこともあまり経験されなくなってしまう可能性があるのです。そして、結果的にまさに自分で自分のことを律する力、すなわち自律性の発達の芽が摘み取られてしまいかねないのかも知れません。
「真の自己」を少し学術的に定義すると、他ならぬ自分自身の内側から湧いて出てくるプラス・マイナス両面の内的状態をリアルに経験・知覚した上で、殊にマイナスの感情を経験した場合には、自発的に他者に向けてシグナルを発したり、環境に働きかけたりして、その他者や環境から適切な反応を引き出す経験を有し、高い自己効力感(自分には他者を動かすだけの、環境を良い方向に変えるだけの効果を及ぼす力があるという感覚)や確かな感情調整経験に裏打ちされている自分ということになります。これは、人が生涯に亘って健康かつ幸福に生きていく上でとても大切な心の力です。そして、それは、親や保育者といった、幼少期の子どもに濃密に関わる大人の「情緒的利用可能性」の高さによって、最も健やかに培われ得ると言えるのです。
執筆者
遠藤利彦(えんどう・としひこ)
東京大学教授。専門は発達心理学・感情心理学。主たる研究テーマは親子関係・家族関係と子どもの社会情緒的発達。
著書
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