忠誠心(駒澤大学心理学科教授:藤田博康) 連載:「多方向への肩入れ」の心理学〜家族の苦しみと回復 第2回
家族においては、一人ひとりが家族のことを大切に想い、家族のことを考えて、家族を裏切らないように行動すべきという暗黙の前提や期待が思いのほか大きな力を持っています。それはあたかも不文法のごとく、誰ひとりとしてその影響力から完全に自由にはなれません。
私たちは、自然とそのような「家族」からの要請や期待を内面化して、それに沿うような態度を持ち続けようとします。それは、家族を結びつける大切な心理的な絆であり、私たちの安心や癒しの拠りどころもあります。しかし、その一方で、あたかも強制力や掟のように私たちを縛ったり、強い葛藤を生じさせたり、罪悪感を抱かせたり、さらには、家族を嫌ったり、恨んだりなどといった心の苦しみの種ともなるのです。
「忠誠心」に由来する心の苦しみ
ナージはそんな一筋縄ではいかない心情を「忠誠心」という概念で捉え、それがどのように個人の生き方に影響を及ぼしているか、とりわけ、それに由来する生きる苦しみ、心の苦しみについて考えました。
前回、家族の中での「収支」の「赤字」の話をしましたが、自分が負担でも、苦しくても、ときに自分の意にそぐわなくとも、それでも家族のために頑張ろう、尽くそうとするのは、まさにこの「忠誠心」の為せる業です。また、私たちが苦しくとも、そんな家族の「しがらみ」から抜け出せない「からくり」も、この「忠誠心」にあるのです。
「忠誠心」は、家族に限らず、凝集性の高い集団や組織でも働くものですが、特に、家族における忠誠心は、誰もが親から生まれてこの世に生を受けたという宿命的な事実に大きく由来し、その表現型を変えながらも、多世代的に脈々と受け継がれ、目に見えない強力な綾となることが多いのです。
例えば、親から十分な愛情をかけられて育った子どもが、親を信頼し、感謝したり、親の期待や望みに沿うような態度や行動を取るといったことで、親の愛情に応えるという親子の関係においては、「忠誠心」がわかりやすいかたちで、比較的健全に働いていると言えるでしょう。それはすなわち「収支のバランス」、つまり、受け取るものと与えるものとの折り合いが良いということでもあります。
しかし、親の愛情やケアが不十分だったり、親から傷つきを受けるなどして、収支の「赤字」が大きいと、淋しさや辛さ、親を嫌ったり恨んだりする想い、同時にそれでも親からのケアや愛情をどこかで求めつづけていたり、逆に親への気遣いや思いやりなどが混沌として、「忠誠心」のありようがとても複雑になります。その複雑な「忠誠心」は、家族内にとどまらず、現実生活のさまざまな場面や対人関係に影響を及ぼします。
たとえそこまで明白な「赤字」ではなくとも、親の何らかの人生の事情や、強い期待や望み、こだわりや親の信念に沿えない、あるいは沿いたくない状況が続いたりすると、やはり、子どもの「忠誠心」のありようが複雑になります。このように、本人に意識されることがあまりなく、しかし、ともすれば心の苦しみを生じさせてしまうような複雑な「忠誠心」を、ナージは「見えざる忠誠心」と名づけました。
見えざる忠誠心
私たちの人生選択には、付き合う友達にしても、学校選びにしても、趣味や志向にしても、職業選択にしても、交際相手や配偶者選択にしても、思いのほか育った家族の文化や雰囲気、親の生き方や態度、親自身が背負っている事情などの影響を色濃く受けています。すなわち、「忠誠心」に方向付けられているのです。
その際、家族からの期待や家族の文化をそのまま受け入れて、人生を選択していくことにあまり迷いがなければ、「忠誠心」による心の苦しみは生じません。小さい頃は誰でもそうです。でも、多くの場合、子どもの成長や自立に伴って、「忠誠心」の葛藤が起こります。
その際に、親子関係が比較的健全であれば、とりわけ親世代に分別があれば、親子で率直に話し合うなり、親が子どもの想いや葛藤を尊重するなり、子どもとの一定の心理的距離を保つようにするなりして、子どもに「忠誠心」の葛藤を負わせ続けることなく、子どもは親の気持ちを汲みつつも、自らの選択で自分の生きる道を歩んでゆくでしょう。
しかし、親のこだわりや期待や信念が強かったりすると、子どもの忠誠心が複雑に刺激されてしまい、「見えざる忠誠心」として不適応を引き起こしたりするのです。
例えば、医師の親が、あるいは、かつて医師に憧れた親が、子どもに医師になる夢を託し、その意義をことあるごとに伝えていたとしましょう。当然、子どもにはその親の想いや期待や要請に応えたいという「忠誠心」が生じます。しかし、懸命な努力にもかかわらず、そこまでの成績や能力や適性が伴わないという現実が迫ると、そこに強い葛藤が起こり、苦しみが生じます。親子それぞれが、進むべき道、あるべき姿から外れる子どもや自分自身をなかなか受け入れられない一方で、子どもはその「呪縛」から逃れたいという思いが強くなります。しかし、「見えざる忠誠心」が邪魔をして、自分の適性に応じた建設的な進路変更が難しくなってしまい、無気力になったり、不登校になったり、親を恨んだり、何らかの問題行動に走ったり、あえて親のまったく望まない生き方を選び取ったりします。しばしば、厳格で逸脱をあまり許さない親の子どもが反社会的になったり、道徳や倫理観を重視するような職業の親の子どもが、それに反するような行動や生き方を選び取ったりすることがありますが、いずれも「見えざる忠誠心」の影響です。
その意味では、親が世間的に見て偉業を成し遂げた人であったり、代々続く事業家業の経営者であったり、社会的地位の高い人であったりすると、子どもや家族に何らかの有形無形の拘束力が歴史性を伴って強く働くことがあります。いわゆる有名人の子どもが問題を起こしたり、心病んでしまったりという話題には事欠きません。特に長子がそうなりやすいのですが、これも「見えざる忠誠心」のなせる業です。
親が精神的、身体的な不調を抱えていたり、人生上の不幸せを抱えていたりする場合も、子どもの忠誠心が複雑に刺激されます。たいていの子どもは親を気遣い、慰め、助けようとしたり、あたかも自分が親であるかのように振る舞いがちです。この親子の関係の逆転が長びくと、やはり「赤字負債」がたまり、子どもが心の不調をきたすようになります。いわゆる「ヤングケアラー」とか「アダルトチルドレン」はこの典型的な例でしょう。
両親が不和だったり、対立していたりする場合も「忠誠心」が働きます。子どもは、父母それぞれへの気遣いや心配とともに、崩れつつある家族の絆をなんとか守りたいといった想いを抱きます。しかし、両親の対立により子どもの「忠誠心」は、あたかも「引き裂かれるような」葛藤体験になります。離婚の際、どちらについていくかという選択や、別居している親との交流への気遣い、実親と継親をめぐっての葛藤なども「引き裂かれる忠誠心」 による心の苦しみです。
「忠誠心」はもちろん親子の間だけでなく、配偶者やパートナーとの間にも生じます。相手を裏切らないように誠実に行動すべきという暗黙の前提、期待や拘束力が働きます。ですから、家事や育児にしても、キャリアの選び方や仕事への取り組み方にしても、双方の実家との関係にしても、はたまた、交友関係や不倫をめぐる問題にしても、夫婦やカップル間のいさかいは、この「忠誠心」をめぐってのことがほとんどです。
ナージは、親子間に生じる忠誠心を「垂直の忠誠心」、配偶者やパートナーなどとの間に生じる忠誠心を「水平の忠誠心」と名付け、この両者の忠誠心の葛藤に着目しました。
例えば、親が反対する相手や、育った家族の文化や雰囲気と馴染まない相手と結婚する場合などに、親を取るか結婚相手を取るかの苦渋の決断を迫られる場合などは典型的です。そうではなくとも、原家族の姓を名乗るか配偶者の姓を名乗るかとか、親の意向を重んじるか配偶者の希望を優先するかなどの葛藤は、少なからずの家族で起こりうる問題の種でしょう。そのような「忠誠心」の葛藤が多ければ多いほど、家族が安らげる関係を保つことは難しくなります。とりわけ、わが国では、「イエ」を重んじる傾向がまだまだ残っているため、「垂直の忠誠心」と「水平の忠誠心」の葛藤に苦しみ、家族カウンセリングに来談する家族も少なくありません。
破壊的権利付与
このようにナージは「忠誠心」という概念を中心に据えて、第4次元の「関係倫理」の側面から、家族のしがらみや、それに由来する私たちの心の苦しみを理解しようとしました。ちなみに、「収支の赤字」といった預金口座に例えたような表現も、関係性の現実、関係倫理をとらえやすくするただのナージのメタファーの一つです。
加えて、ナージは私たちの生きる苦しみや不幸せに直結する概念として、「権利付与」という考え方を提唱しました。「権利付与」というのは、耳慣れない訳語ですが、私たちが相手に好意的に(建設的に)、あるいは逆に、否定的に(破壊的に)振る舞おうとする内的構えのことです。
これまで特に「見えざる忠誠心」に由来する心の苦しみの例をいくつかお話しましたが、実は、「見えざる忠誠心」はそれを持つ者を苦しめるだけにとどまらず、身近な人や周囲の人たちを巻き込んで、苦しみを連鎖させてしまうことがしばしばあります。
というのも、私たちはそのような「深い苦しみ」を抱えることによって、他者の痛みや苦しみへの感性や思いやりに乏しくなり、ぞんざいで冷淡な対応をしたり、さらには相手を傷つけるような態度や行動を取りがちになったりしてしまうからです。
そればかりか、その意識や自覚なしに、自分の「赤字」を、他者を苦しめることで埋め合わせようとしたり、あたかも復讐の矛先を向けるかのごとく相手を傷つけてしまうようなことが起こりえるのです。
例えば、虐待を受けている子どものように、親を想う気持ちや献身的な態度がまったく報いられることなく、過剰な苦しみや不公平な体験が積み重なると、「赤字」が大きく膨れ上がり、その分、あたかも「自分は他者に破壊的に振る舞う権利がある」と思っているような振る舞いをするようになってしまいます。これをナージは「破壊的権利付与」と名付け、私たちの心の病理の本質とみなしました。「破壊的権利付与」が病理的なのは、それを持ってしまった人の人生自体が不幸せであるだけでなく、周囲の人たちをも巻き込み、連鎖的に皆を不幸にしてしまう点です。
私はかつて、非行少年の心理支援に携わっていたことがありますが、深刻な犯罪を犯してしまう子どもたちは、必ずと言っていいほど、この「破壊権利付与」を抱えていました。
ある少年は、連日のように継父から暴力を受けていましたが、実母のことを気遣い、独り耐えてきました。しかし、思春期を過ぎたころから、通りすがりの女性を脅したり、暴力をふるったりして金銭を奪うようになりました。その少年は捕まっても、被害者の痛みを思いやるどころか「俺の目の前に現れた相手が悪い。俺がこうするのも当たり前だろう」と言い張り、その後も何度か同様の犯罪を繰り返しました。
ネグレクト(養育放棄)で、複数の男性との情事のたびに、子どもを家から追い出すような母親と暮らしていたある男の子は、思春期に近づくと万引きや侵入盗を繰り返すようになりました。その後、施設生活を経て、暖かく思いやりがあって面倒見が良い雇い主夫妻と出会い、二人のおかげで手に職をつけ、経済的にはギリギリながらも、自活して比較的充実した生活を楽しめるようになりました。長期間にわたって母親との交流は一切なかったのですが、そんな青年に、突然、母親から金銭を無心する連絡がありました。青年は散々迷ったあげく、あれほどの恩があった雇い主から数万円を盗んで、逮捕されてしまいました。
両者の犯罪の質は異なりますが、どちらも、子どもの頃、親からのケアを希求し、親のことを気遣いながら、自分の淋しさや苦しみに懸命に耐えてきたけれど、それが報われることなく、「破壊的権利付与」を抱えてしまい、自分や周囲の人をますます不幸に追いやってしまったという悲しい結末です。
逆の言い方をすれば、ナージの言う「関係倫理」の側面、特に「みえざる忠誠心」の持つ影響力や破壊力を想定していないと、個人の心理の次元だけでは、そのような振る舞いの理解がなかなか難しいということでもあります。
とりわけ、深刻な犯罪や、ある種の精神的な不調や病が綿々と続く家系など、家族の「業」の深さでも形容されるような、「苦しみ」や「不幸」が世代を超えて連鎖してしまう現象は、「見えざる忠誠心」や「破壊的権利付与」の強い影響力を想定してはじめて、その理解に近づくことができるでしょう。
私たちにもひそむ破壊的権利付与
私たちの中にも、「破壊的権利付与」に近い心のからくりが潜んでいることは少なくありません。
私たちは、家族関係や人間関係での不公平さや理不尽さに堪え忍んだ経験を持つと、同じような状況の相手に対して、その苦しみに鈍感になったり、そんなことは当たり前だと思ったり、逆により厳しく接してしまったりすることがあります。「自分も辛さに堪えて頑張ってきた、誰も助けてくれなかった」という気持ちが高じて、苦しみを抱える身近な人に素直に手を差し伸べられなかったり、冷ややかに接してしまったり、もっと頑張るべきだというかたくなな態度になってしまったりするのです。
あるいは、恵まれた人生、苦労のない人生を送っているように見える人に対して、なんだか面白くないという想いや、妬み、うらやみ、批判したり、足を引っ張りたい、という想いが強く湧き、不機嫌になったり、相手を邪魔するような言動をしてしまうこともあります。
また、場合によっては、教育や政治などの世の中の権力や不正に敏感になり、それに強く憤り、糾弾し、攻撃するといった、過剰な正義感の表現になることもあったりします。私たちは、そのような形で、自分の受けた不平等、不公平を取り戻そう、仕返ししよう、正義を在らしめようというふるまいをしてしまうことが往々にしてあるのです。
もし家族内でそういうことが起これば、その影響を最も被るのは共に暮らす子どもやパートナーです。本来、頼りたい存在、優しさや思いやりを期待する相手が、「破壊的権利付与」に近い状態にあると、優しさや思いやりの雰囲気とはかけ離れた、不機嫌な感じや、厳しさ、冷淡さが前面に出てきてしまいます。
それは、その人が自分自身の「苦しみ」への対処に多くのエネルギーを費やしてしまっているからにほかならないのですが、子どもやパートナーは、そんな事情はわかりませんから、それに不満や不安、憤りを感じ、感情的に対応してしまいがちです。そうすると、相手の態度はより頑なになります。多くの家族の苦しみの背景には、実は互いに助けや安心を求めている者同志のこのような悪循環の連鎖があるのです。
人は誰もが一人では生きられない存在で、いくつになっても親密な関係によるケアを希求します。とりわけ身近な家族には、「忠誠」や「癒し」を強く求めてしまいます。生きづらさに苦しむ者は特にそうです。「破壊的」な振る舞いの根本は、その人が深く抱える生きる苦しみと、その回復を身近な人に頼ろうとしてしまう「人間らしさ」なのです。私たちは弱い存在で、自分の苦しみのあまり、大切な家族に、子どもに、その苦しみを背負わせてしまうということがとてもよくあるのです。