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何度も蘇る「嫌な記憶」「つらい記憶」には、対処法があるのか(春日武彦:精神科医)#立ち直る力

過去に囚われているのは嫌なもの。心新たに明日に踏み出して行きたい。そう願っていても、人にないがしろにされたり、大きな失敗をしたりした記憶は、何年経っても何度でも蘇っては、自分の足を引っ張ることがあります。そんな記憶にどう対応することができるでしょうか。どのように心の立ち直りを生み出すことができるのでしょうか。精神科医の春日武彦先生に書いていただきました。

【記憶のゾンビ】

 幸いにも、わたしは人生観や世界観が一変してしまうような恐ろしい出来事や、途方もなくつらく悲しい事件に遭遇したことはありません。もしそういった出来事や事件と出会っていたら、それらは忘れたくても忘れられない「おぞましい記憶」として頭の中に居座り、たとえ忘れたつもりになっていたとしても、何かの拍子にいきなり(まるでゾンビのように)蘇って心を苦しめるに違いありません。

 比較的平穏に人生を送ってきたとしても、恥ずかしい思い出や失望、絶望、自己嫌悪に駆られるようなエピソード、悔しさや腹立ち、取り返しのつかない振る舞い、泣きたくなるような記憶などと無縁ではありますまい。可能ならばピンポイントで忘れ去ってしまいたいものの、これらもまたゾンビさながらにいきなり蘇ってくる。

 そもそも思い出したくもないことが勝手に蘇ってくるなんて、おかしな話です。そこには何か理由がある筈だ。思い出すことがプラスに働くような、そんなロジックがある筈だ。

【PTSDのこと】

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれる症状があります。それこそ人生観や世界観が変わってしまうような強烈なトラウマ――災害や大事故や戦争に巻き込まれたとか、性的暴行や死の脅威に直面した、大切な人が悲惨な目に遭うのを目撃してしまった等――を体験すると、その影響が長引き、長期にわたって心身の不調をもたらします。のみならず、そうした体験をほぼ忘れ去ったように思えても、トラウマの原因となった出来事を連想させる些細な出来事(たとえば、今日がちょうど事件が起きた日付と同じであることに気が付いたとか、事件の直前に食べたものと同じ匂いがキッチンから漂ってきたとか)を契機に、トラウマとなった出来事がありありと蘇る。フラッシュバックというやつですね。それは五感にダイレクトに迫り、あまりにも唐突でリアルゆえに当人は困惑したりパニックに陥ったりします。まさに不意打ちといったところです。

 酷い記憶なんて、それを完璧に忘れてしまえれば安寧な生活を送れるというのに、フラッシュバックが起きることには何か特別な意味があるのでしょうか。

【「たら・れば」とリベンジ】

 人間は、あっさりと割り切ることが苦手な生き物のようです。いまさら蒸し返しても仕方がないのに、後悔したりやましさを覚えたり気がとがめたり、あるいは新たに怒りが生じたり、未練がましく後知恵を出したり、そんな悪あがきをしがちです。ときには過剰な自責感に駆られたりもする。そうして「たら・れば」を繰り返してしまう。運が悪かったから仕方がない、と簡単には諦められません。

 どうやらわたしたちは、ろくでもない過去であればあるほどそれに執着してしまう傾向がある。そして無意識のうちに記憶を巻き戻して「ろくでもない過去」を召還し、たとえ心の中だけであっても「今度こそ首尾良く事態に対処したい、上手くクリアしたい」と考えてしまう。そうやって遅ればせながらも過去に打ち勝ちたい。そうでなかったら自分は負け犬のままだと感じてしまう。

 でもそのようなリベンジは、結局のところ、余計に過去の自分を否定してしまいましょう。自己嫌悪が生じたり、なおさら口惜しさが募ってしまう。今さらどうにもならないのですから、無力感や敗北感を助長するだけになってしまいかねない。

 にもかかわらず、やはりあの過去と再度対決し仇討ちをしたい、打ち勝ちたい、克服したいといった気持ちを抑えられない。もう二度と思い出したくないと思うと同時に、つい、そんな自己撞着めいたことを考えてしまう。そして過去を再現してはそれを扱いあぐね、ときには圧倒されたり混乱をきたし(フラッシュバック)、苦々しい感情に沈む。これが反復されるわけで、まさに未練がましさの無限ループが成立してしまっている。

 繰り返される、反復する、というのは「しんどい」ことですけれど、多くのものごとは繰り返しや反復で「慣れ」や耐性が生じますよね。少なくとも生々しさは薄れる。それなのに嫌な記憶・つらい記憶にはそれが起きない。これからを生き抜いていくためには、おぞましい記憶こそ風化させてはいけない・それを教訓として心に刻み込むべきといった発想も関与しているのでしょう。いずれにせよ記憶のゾンビは、まさに矛盾した思考と執着とが生み出した怪物といえるのかもしれない。

 思いますに、人間の心の不思議さの最たるものは、しばしばこのように矛盾した考えを持ってしまうことではないでしょうか。矛盾しているのに、それを上手く統一するわけでもなしにどうにか生きて行ける。べつにいい加減というわけでもないが、矛盾を受け入れられる。これが人間の不思議さであると同時に懐の深さだと思いますね。精神を病んだ人は、おしなべてこの「懐の深さ」に問題が生じています。

【人生というストーリー】

 カウンセリングをはじめとしたさまざまな心理療法は、クリアな解決を目指したアプローチとは違うとわたしは思っています。むしろさきほど述べた「懐の深さ」を活性化させたり積極的に活用させる。ろくでもない記憶に対して、いろいろ複雑な思いもあるけれど、静かに微笑を浮かべつつ遠くを眺めるような目付きで一瞥したまま通り過ぎることができるようになるのも、懐の深さの効用でしょう。そこを目指したいところです。

 というわけで、「嫌な記憶」「つらい記憶」への対処法をここに記します。

 まず、ろくでもない記憶が蘇ってきたら、孤独を避けましょう。一人で思い詰めていると、思考は暴走しがちです(たとえば自殺志願者は、孤独なまま思いに思い詰めた挙げ句「死ぬしかない」という結論を導き出します)。他人に自分の気持ちや苦しさを語ることによって、自分を客観視する視点が生じます。我に返る可能性が高まる。聴き手の助言に期待するのではなく、自分の頭の中の風通しを良くすることが肝要です。カウンセラーは、そうした際の聞き役のプロというわけですね。

 往々にして不快な記憶はあざといほどの存在感で迫ってくる。でもそれを淡々と他人に語ることで圧迫感やドラマチックさは薄まるものです。精神的余裕も生じ、「懐の深さ」が救いとして機能してくる。上手くいけば、それこそ話しのネタといったレベルに収めてしまえる。

 過去とケリをつけるといった発想は賢明ではありません。過去に実体はありませんから、絶対に勝てません。距離を置くのは「逃げ」でも恥でもない。おかしな人物とは関わらないほうがいいのと同じです。そして今をきちんと生きれば過去は次第にセピア色になっていくと考えましょう。嫌な過去、つらい過去は、あなたというストーリーを構成すると同時に、現在のあなたを再評価するための材料だと捉えるべきだと思うのです。

執筆者プロフィール

春日武彦(かすが・たけひこ)
都立精神保健福祉センター、都立松沢病院精神科部長、都立墨東病院神経科部長などを経て、現在も臨床に携わっている。
『奇想版 精神医学事典』(河出書房新社)、『ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと』(イースト・プレス)、『あなたの隣の精神疾患』(集英社)、『鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる』(キネマ旬報社
)、『無意味とスカシカシパン』(青土社)、『援助者必携 はじめての精神科 第3版』(医学書院)など著書多数。

▼ 著書

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