連載:作文で変わる不登校の子どもたち~書くことで自己と対話する【第6回】不登校だった先輩から後輩へのメッセージ(スクールカウンセラー:林千恵子)
教育支援センター(適応指導教室)を巣立つ前の3月に、中学3年生に最後に書いてもらう作文があります。不登校の後輩へのメッセージです。
「自分も通い始めた頃は、この先どうしていいか分からなくてつらかった。」「(後輩は)自分の人生は終わったと思ってるんだろうな。」「少しでも後輩の役に立つならば。」と、どの子も二つ返事で引き受けてくれます。自分の歩んできた道のりを振り返っているような表情です。
紙に書いても、パソコンやスマホを使っても、絵を描いてもOKです。それぞれが自分の思いを一番表現しやすい方法で行います。
めっちゃ成長したんだよ
とびきり元気な後輩へのメッセージを紹介します。「25歳の自分」作文(第5回で紹介)で「不登校でも努力次第でなんとかなるっていう将来にしたい」と目標を立てた子が、ちょうど1年後に書いたものです。
紙いっぱいに元気な文字で書かれていました。成長した自分に対する喜びや自信が文章からあふれだしています。「みんなも成長できるよ。こっちにおいで。」という後輩へのエールの声が聞こえてきそうです。
3年生になってからの作文練習では、私がOKを出しても、「まだまだダメ、もっと書ける気がする。」と言って、自分と向き合い続けました。「あきらめがちな自分」を見事に卒業したのです。
ほんと自分次第
もう一つ、メッセージを紹介します。
作文の内容から、自己を見つめ直し、不登校という経験を俯瞰して眺めて、自分を肯定できるようになっていることが分かります。その経過の中で、自分で決めることの大切さを実感し、自分次第で変えていけるという自信が生まれています。
作文を通した自己対話でもたらされたものが見事に言語化されていて、私がこれ以上何も書く必要がないと思うくらいです。
作文を通して誰かの役に立つ
「後輩へのメッセージ」の中で、それまでの作文とはまた違った、さらなる深まりの感じられる思いや言葉が綴られることがあります。
なぜなのだろうかと考えていたのですが、「誰かのために書いた作文」だからなのだと気付きました。それまでの作文は、自己対話を深める、自分のための作文ですが、この作文は、不登校で苦しんでいる後輩という明確な他者に向けて書かれています。それも、自分が経験してきた苦しみや焦りという気持ちと、今戦っているであろう後輩です。
日常の生活や体験活動の中で、誰かの役に立ったと実感できた時に、不登校の子どもたちは格段の成長を遂げると思っていたのですが、作文も一緒なのだと納得しました。自分の経験や思いを書くことで誰かの役に立ちたいという思いが、作文やその子自身を、さらに一段押し上げてくれるのです。
誰かに伝えるために、今一度自分の不登校を振り返ることで、不登校になって得たものを実感し、つらかった頃の自分を癒して、未来への希望や覚悟をさらに固める機会になっているのかもしれません。
たくさんの「後輩へのメッセージ」を読み返してみると、「なんとかなる。」「大丈夫。」「あせらなくていい。」といった言葉が多く使われています。自分の経験を振り返ったうえで、「不登校になって自分の人生は終わったと思っていたけれど、案外なんとかなると分かった。あせらなくて大丈夫だよ。」と書いている子もいます。
そして、「こわいだろうけれど、まずは一歩踏み出してみよう。」「小さな目標を立ててみよう。」「自分に少し自信をもってみよう。」……という励ましが、寄り添うように書かれています。
また、「好きなことを大切にするといい。」というアドバイスも多くあります。「自分の世界を変えてくれるから。」「つらい時を支えてくれるから。」「好きなことが夢になるから。」とそれぞれの理由が書かれています。
「つらい時を救ってくれた大好きなゲームに恩返しするために、ゲームクリエイターになるという夢ができた。」と書いている子もいました。
「大丈夫だと言われても、今は信じられないかもしれないけれど、一年後に後輩に向けて同じようなメッセージを書いていると思うよ。」と締めくくられた作文を読んだ時は笑ってしまいました。教育支援センター(適応指導教室)に入ったばかりの頃に、先輩からのメッセージを読んで、「どうせ、先生にうまいこと書かされているんだろう。」と思っていたと書いてあったからです。
「ここでは大人の気に入りそうなことを書かなくていいんだよ。本音で作文を書いていいんだよ。」と付け加えられていました。
高校生になると作文が書けなくなる
教育支援センター(適応指導教室)を巣立ち、普通に高校生活を送るようになった卒業生の多くが「作文が書けなくなった。」と言います。全く書けなくなったということではなく、それまでのような作文が書けなくなったという意味です。実際に高校で書いた作文を見せてくれるのですが、作文としての体裁はしっかりとしているのですが、文章を綴るための作文といった印象のものもあります。
そこまで切実に自分自身と向き合う必要がなくなったのだと感じます。不登校であった時期には、自分という存在がどうしても揺らいでしまいます。心のモヤの奥に、本来の自分がうずくまってしまっている感じでしょうか。
だから、本来の自分を取り戻し、自分らしく生きていくために、深く自分を見つめ直すことが必要だったのです。
作文という武器を味方に本来の自分探しの旅をしているようなイメージが浮かびます。自分と向き合いながら文章を書き、書いた文章に語りかけられるように自分との対話が続く。「その言葉は本当なのか?自分の心を表現しているのか?」……。
苦しい対話の中で、ギリギリのところで、自分の心と向き合おうと必死で書き綴る。だから、優劣とは関係のない、心を綴るための作文が書けたのだと思います。
大人になった卒業生が、「今までの人生の中で、不登校だった時期が一番頑張って生きていた」と話すことがあります。
中学校を卒業してから十数年後に「中学生の時にギリギリまで問いつめて、自分と向き合ったから、今の自分がいる。」と話した子もいます。作文による自己対話を通して、自分の中に確かな軸を作り、自分らしく生きているのだとうれしくなりました。
長い不登校支援の中で、不登校の解決とは、不登校の意味を見つけて、自分なりの解決法や、自分らしく歩んでいくための方法を見つけることだと考えるに至っています。
不登校であった時間を、その子どもにとって意味のあるものとし、成長のチャンスとする。作文は、これからも私の頼もしい相棒です。