連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第2回「世界観が揺らぐ」
魔法の数字
かなり前のことですが、外来で摂食障害の若い女性(B子としておきましょう)をフォローしていました。体重にひどくこだわり、しかしそのことに悩んで精神科を受診したわけではありません。不眠や不安、しばしば生じる抑うつ状態などを訴えて外来を訪れたのでした。
初対面のときには驚きましたね。化粧が濃く服装はセクシーそのもので、医療機関を受診するといったイメージとは程遠い。場を弁えないというか、いささか非常識と感じざるを得ない。どんな格好をしようが本人の勝手かもしれませんが、何かの拍子にわたしがセクハラでもしたと言い出しそうな危険な雰囲気がある。後に分かったことですが、B子はそのような形で相手に威圧感を与えることでいわば鎧を身に着け自分を守っている気分になっていたのでした。
そんな調子で、彼女の考え方や振る舞いには、おしなべて微妙に世間的なセンスとは食い違っているところがあった。それが生き辛さの理由の一つにもなっているようでしたし、逆に、「わたしは世間一般の凡庸で退屈な人たちとは違う」といったいささかいじましい自尊心にもなっているようでした。
B子は体重に強いこだわりがあったわけですが、それに関して彼女は非常に印象的な話を語ってくれました。とりあえずB子の体重を33キロとしておきましょう。彼女にとって33という数字はまさに人生を左右する魔法の数字(!)だというのですね。
うっかり気を許して33キロを100グラムでも超過してしまった(つまり、ほんの少しだけ肥満へとシフトしてしまった)としましょう。すると世の中は、たちまち自分に対して敵意を剥き出しにしてくるのだと彼女は主張します。
道を歩いていれば、「わざと」バッグや持ち物をぶつけてすれ違って行く人が次々に現れる。こちらの行く手を遮るようにして、確信犯的にのろのろと歩いて行く意地悪な人がいる。自転車はこちらを挑発するかのように蛇行しながら抜き去っていく。タクシーを拾おうとしても、空車にもかかわらず運転手は無視して走り過ぎていく。電車で腰掛けようとすると、両側の客がわざと足を広げて座ることを阻止する。コンビニやドラッグストアへ入れば、店員はまるで万引き犯であるかのように疑わしげな視線を向けてくる。道ばたでビラを配っている人は、自分が前を通ると急に硬い表情になってビラを引っ込めてしまう。自宅の近くまで歩いてくると、立ち話をしていた主婦たちは口をつぐみ、咎めるような目付きでこちらを睨みつける。――と、そんな調子で世間は明らかに自分を嫌悪し敵視しているのが実感される。
けれども頑張って体重を33キロ・ジャストから100グラムでも減らすと(つまり、ほんの少しだけスリムへとシフトさせると)、世の中はあたかも掌(てのひら)を返したかのようにフレンドリーな態度を示してくる。
道を歩いていれば、歩を進めやすいようにと皆がわざわざスペースを空けてくれる。自転車は安全を考慮してスピードを落とし、ついでに目の保養でもするかのようにこちらを眺めてほっこりした表情を浮かべる。タクシーを拾おうとすれば、争うように何台もの自動車が寄り集まってくる。電車に乗れば、紳士が立ち上がって席を譲ってくれる。コンビニやドラッグストアへ入れば、貴方が立ち寄ってくれたおかげで店の格が上がると言いたいかのように丁寧な対応をしてくれる。レストランへ入ればボーイは椅子を引いて着座させてくれるし、服を買おうとショップに立ち寄れば、あなたに相応しい取って置きの一品がございますとばかりにバックヤードから自慢の商品を出してくる。自宅の近くまで歩いてくると、立ち話をしていた主婦たちは口を半開きにしたまま、憧れるかのような視線を向けてくる。――と、そんな調子で、今や世間は自分を賛美し大切にしてくれる姿勢にあるのが実感される。
もちろんB子の「実感」は、主観の産物でしかありません。錯覚、いや妄想に近いものでしょう。でも彼女にとっては、それはまぎれもなく現実です。体重の微妙な増減、魔法の数字である33をわずかでも超えるか減るかで、さながらスイッチでも切り替えたように、自分を取り巻く世界の様相はいとも簡単に変化してしまう。だからわたしは体重にこだわらずにはいられない、自分が幸せに生きるためのせめぎ合いなのですから。B子はそのように主張するわけです。
救いとしての単純化
B子には、毒親(少なくとも彼女はそのように信じている)との確執という「わだかまり」が心の中に居座っていました。親には一貫性が欠け、愛情を取引の材料とするような育て方をしていたらしい。親の意向に沿って頑張った場合には愛情を与えてもらえるけれど、親の意に背くような言動があると、わざとらしくため息を吐きながら「もう、余所に養子に出すしかないねえ」と呟く。それどころか、彼女の衣服をリュックに詰めさせ「さあこの家を出て行く準備をしなくちゃね」などと宣言するのです。
こうした極端な「掌返し」を繰り返されると、B子は親が「優しく包み込み守ってくれる」存在なのか、「非情でシビアな」存在なのかが分からなくなってくる。ときにはなぜそのように判断したのか分からないまま親が「非情でシビア」モードになってしまうのですから、なおさらです。これではいつも緊張していないと、いつ自分が見捨てられてしまうのか分かったものではない。不安から逃れられない毎日だ。
おそらくB子にとって必要だったのは、自分の運命を自分自身でコントロールできるというシチュエーションの確立だったのでしょう。しかも何かの拍子に、「痩せているのは美人の必須条件であり、それさえクリアできれば自分は世の中から認められ温かく受け入れられる」といった図式を信じるようになってしまった。こんな図式が馬鹿げていることなど誰にも分かりそうなものですけれども、そのいっぽうファッション雑誌などはまさにこうした発想で編集されています。B子には雑誌のほうが信じるに足りたのでしょう。
というわけで、彼女は体重に固執するようになった。それどころか、経験的に33キロという数字が体重維持の難しさにおいて運命の分水嶺と思えるようになった。だから、33は魔法の数字となり、それを巡って世界観が目まぐるしく切り替わるようになった。幸福が数字の33によって司られるというのは、あまりにも単純な発想でしょう。しかし彼女の生育史に照らしてみれば、自分でコントロール可能なうえに明快きわまりない単純化は、B子にとって救いだった筈です。だからわたしが彼女に向かって、33へのこだわりの馬鹿馬鹿しさを説いて聞かせても決してそれを受け入れなかったことでしょう。しかもわたしには33よりも彼女へ救いをもたらす代案など思いつけません。
苦しみと酩酊
親の養育態度に根差す「わだかまり」は、B子が長ずるに及んでそれとの折り合いをつけるべくマジックナンバー33への固執となった次第です。結局は形を変えただけでしかないものの、彼女なりに納得がいく形へ着地した。が、その代わり、容易に世界観が変貌するといった事態にB子は直面することになった。これはこれで、なかなか疲れる現状ではないでしょうか。その二転三転ぶりには、眩暈(めまい)すらしてくるのではないか。
しかしどうやら彼女にとって、眩暈は苦しみというよりは酩酊の快感に近いものになってしまっているようでした。しかもそれはある程度自分でコントロールできる。そうなると、アルコールで酔うのと案外近い。B子にとって現在の状態は、むしろ「33依存症」とでも名付けたほうが相応しい気すらしてしまいます。
いったい今のB子は幸せなのか。考えようによっては、不安定なりの安定とでも呼ぶことができましょう。つまり幸せに近い。だが同時に、やはりどこか無理がある。歪みが生じており、それが不眠や不安、抑うつ感情の出没につながっているのでしょう。とはいうものの、よほどのエピソード(自分の人生をあらためて俯瞰する契機になるような)がない限り、彼女は33へのこだわりを手放さないでしょう。それが良い状況なのか悪い状況なのか、わたしには正直なところ判断がつかないのです。