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消えない恨みはどう扱うべきだろう(精神科医:春日武彦) #心機一転こころの整理

「人の恨みは買うものではない」と昔の人は言っていましたが、確かに恨みは買ってしまっても、自らが抱いても、対処に苦労する気持ちだと思われます。恨むこころの整理について、春日武彦先生にお書きいただきました。 

恨みは単純な感情ではない

 恨むとか恨みといった言葉には、どこか穏やかでないトーンが感じられます。それこそ「呪ってやる!」「このままで済むと思うなよ」「いずれ思い知らせてやる……」といった調子の、たんなる怒りを超えた根深いものを感じずにはいられません。陰(いん)にこもったというか、じめじめしたというか、恨まれる側にとっては(おそらく)推し量り難い複雑な憎しみが想像されます。

 どんなときに、人は相手を恨むのでしょうか。たとえばあなたの家族が通り魔に刺殺された、なんてケースがあったとしたらその犯人に怒りを覚えるのは当然でしょう。しかもこの場合には、誰が見ても悪いのは犯人です。家族にもあなたにも非はまったくない。理不尽さというか運命そのもの、そして犯人その人を憎むことは当然であり、誰もが共感してくれましょう。こうした場合の怒りや憎しみは、恨みとは少し違う気がします。恨みの感情には、もう少し込み入った心の動きが秘められているような気がするのです。

恨みの本質

 ではどのような場合に恨みの感情が生ずるのか。

 裏切られた、見捨てられた、ないがしろにされた、馬鹿にされた、笑いものにされた、察してもらえなかった――そんなシチュエーションが思い浮かびます。診察室で、両親に激しい恨みを抱いている人と出会うことがありますが、まぎれもない虐待事案はさておき、親として発揮すべき愛情や優しさ、相応の思いやりや心配りをしてもらえなかった等が原因の多くを占めているようです。

 上に述べたような「恨みの原因」は、恨む側の当人に大きなダメージを与えている。だが客観的には、当人が実感するほどひどい行為をされていたわけではないと思われるケースも少なくないようです。話を聴いていると、思い過ごしとまでは申しませんが、いささか当人の独り相撲というか、神経質すぎるなあと言いたくなる事案が珍しくありません。

 このようなギャップにこそ、恨みの本質があるのではないかとわたしは考えます。結論を先取りして申せば、そのギャップとは羞恥心に深く関わっています。当人はひどいことをされたという感情のみならず、恥をかかされたという思いを抱いている。それこそが恨みを恨みたらしめているのです。

 恨みを向けずにはいられない相手(加害者と呼ぶことにしましょう)に対して、最初のうちは、被害者当人は信頼感を抱いていた。少なくとも警戒するような相手ではないと思っていたし、場合によっては親近感や友情すら抱いていたかもしれません。ところがある場面で、加害者は信頼に背いた。卑怯にも掌を返し、それによって被害者当人は何らかの辛い思いや不利益を被った。いやそれだけではなく、当人は加害者へ「まさかそんなことはしないだろう」「きっとこうしてくれるだろう」と期待していた。けれども加害者の振る舞いによって当人は「当てが外れた」。当てが外れたことで、当人は戸惑い、うろたえ、事態に上手く対応することすら叶わなかった。主観的には醜態をさらした。つまり恥をかかされた。

 恨みの本質は、加害者はまったく気づいていないけれど、当人の「当てが外れた」ショック、恥をかかされたという思いに求められるべきでしょう。しかも被害者当人としては、恥に関してはいまさら誰かに語るなんてまっぴらだ! といった気分になっているから、なおさら陰にこもってしまう。 

自己嫌悪という要素

 恥をかかされたという思いは、まことに対処が難しい。それは心の傷になっているから、簡単には忘れてしまえません。のみならず、ああすればよかった、こうすればよかったという後知恵ばかりが次々に頭に浮かび、なおさら腹が立つ。さらに、こんなことに拘泥する自分自身が情けなくなる。悔しいどころか、己の器の小ささに辟易したりもしましょう。

 相手を信じた自分も愚かであった。そうした意味では、自分にも非があったと言えなくもない(幼少時の出来事は除きます)。そうなると自己嫌悪が立ち上がってきます。加害者を糾弾したい気持ちがあるいっぽう、僅かではあるものの自業自得に近いところもある。いつまでも「恥をかかされた!」などと固執する自分もショボい。でもやはり悔しいし、加害者を許せない。とはいうものの、本当に加害者に謝らせようと思ったら自分の感じた恥の気持ちを相手にくどくどと説明しなければならず、おそらくそのこと自体がみっともないことだろう。下手をしたら、いじましい奴だと嘲られるかもしれません。そこでまた自己嫌悪が膨れ上がってくる。

 要するに、恨みが生ずるという状態においては、「恥と自己嫌悪」という部分が心の整理を困難にしているのでしょう。

 恥と自己嫌悪とがまったく別の現象のように記しましたが、実際には双方は絡み合っています。恥においては、自分が相手に期待していたものがあったという点で、自分には卑屈さや浅ましさがあったかのように思えてしまう。恥をかかされたのは事実にしても、そこには自分の迂闊さも関与している。そこで自己嫌悪感が発動される。他方、自己嫌悪に固執している姿はみっともない。自分が好きになれないと悩んでいるわけですから、他人から見ればくだらない。くだらないと思われるのは恥でしょう。そんな調子で、恥と自己嫌悪とが混ざった挙げ句の「どうしようもなく嫌な気分」が恨みをいつまでも持続させる。これでは脱出の糸口など見つかりませんよね。

恨みを晴らせば解決するのか

 恨んでいる相手を金属バットで力任せに叩きのめしたり、ドブ川に蹴り落としてやれば気分はすっきりするでしょうか。その行為に対して復讐や仕返しをされたり、暴行傷害事件として逮捕される心配はないと仮定しても、おそらく気分爽快にはならない気がします。なぜなら恥や自己嫌悪といった要素は、100%相手のせいとは言えませんから。自分で勝手に恥と思ったり自己嫌悪に駆られている――そんな自縄自縛的な要因を否定できませんから。

 ならば、相手が土下座をして泣きながら謝罪すれば気は晴れるのか。これも駄目でしょう。加害者は、被害者当人の「恥と自己嫌悪」については想像が及んでいないでしょうから。そうなりますと、先ほども記したように当人が加害者に向けて「わたしはこんな具合に心が苦しく、どうにもならない嫌な気分に囚われてきたのだ」と説明しなければならない。それってやはり間抜けな振る舞いですよね。説明しても、きっと加害者にはぴんとこない。「は? ちょっとよく分からないんですけど」なんて返されたら赤面してしまいそうです。その説明によって被害者は、思い込みが激しいうえに被害妄想傾向の変人とされてしまいかねないわけですし。形勢逆転となってしまう危険すらある。

 恨みぬかずにはいられないような相手(加害者)に対して、被害者は決して恨みを晴らせないという構図が成り立つ次第です。腹立たしい限りですが。 

気持ちの落としどころ

 ややこしいことになってしまいました。こうした場合に、「気持ちをスッキリさせる魔法の一言」とか「心の風通しをよくするたったひとつの方法」なんてインスタントなものは期待しないほうがよろしいと思います。そうした類の記事がネットにはあふれていますが、役に立ったことなんてないでしょ? でもそれは「打つ手なし」といったこととは違います。

 おしなべてこうした事態に対しては、自分がスルーしたい部分――つまり「恥と自己嫌悪」にきちんと向き合うしかないと考えます。加害者に伝えるのではなく、自分で冷静に向き合う。それは痛みを伴うし気が進まないかもしれません。が、それでも必要だ。だからそれを支援するためにカウンセラーや精神科医がいるというわけです。とはいうもののいきなりクリニックへ行くというのもハードルが高いでしょうから、ならばとにかく恨みのメカニズムを自分なりに理解し「ああ、わたしはここが弱点なんだな」と納得するしかないと思います。納得するなんて言うけど悪いのは向こうじゃないか、といった反論があるかもしれません。けれどもそこにこだわっているうちは、今後も似たような苦い経験を繰り返しかねません。

 まずは自分が不器用だった部分を潔く見つめ直して賢くなりましょう(強くなる、と言い換えてもよいかもしれません)。そのようなプロセスを通して、感情的な要素は次第に鎮静してくる。鎮静すれば、「自分はもっと賢明になる」という一連の作業はあなたに余裕をもたらす筈です。余裕が生じたとき、おそらく恨みはせいぜい「あいつ、呆れた奴だなあ」「くだらない奴だなあ」レベルのものに変化していきます。そうしたら、あとはもっと胸を張って生きていけばよい。もっと幸せを追求すればよい。これがわたしなりに推奨する「恨みへの対処法」です。 

【著者プロフィール】

春日武彦(かすがたけひこ)
精神科医。都立松沢病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。保健師やケアマネ等を対象にしたスーパーバイズや研修などの活動も多い。著書多数。

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