心の数量化と公理的測定論(関西学院大学社会学部教授:清水裕士) #心理統計を探検する
心を数量化する
心理学では、「心を測る」ということを行います。とはいえ、心はそもそも直接観測することはできませんが、それを測ることはいかにして可能なのでしょうか。数理心理学ではその問題を公理的測定論という研究成果によって答えようとしました。本記事では、心理学で心を測るという問題について、公理的測定論という観点から解説します。また、心理学者が知っているようであまり知らない、尺度水準の数学的な意味についても解説します。
心の測定は可能なのか
心理測定の歴史は、心理学の歴史と重なるほど長いですが、現代でも使われている心理測定の理論の基礎を形作ったのは、Thurstoneであるといえるでしょう。Thurstoneは心理物理における感覚量の測定のための理論である比較判断の法則(Thurstone, 1927)を開発し、さらにその手法を発展させて態度測定のための理論(Thurstone, 1928)も構築しました。またさらに、Spearmanが知能研究のために開発した因子分析を多次元に拡張し(Thurstone, 1931,1934)、パーソナリティの分析に応用しました。これらの理論と方法は1925年~1935年の10年間で立て続けに提案され、計量心理学の研究分野が確立しました。そして計量心理学の学会であるPsychometric Societyが1935年に設立され、Psychometrika誌が1936年に発行されました(初代編集委員長はThurstoneです)。まさに心理測定における「奇跡の10年」といっていいでしょう。態度測定とパーソナリティ測定の歴史的な流れは、こちらの原稿に詳しいので興味ある人はご覧ください。
しかし、そんな心理測定の隆盛の中、心理測定は物理学の分野から大きな批判を受けることになります。1932年にイギリスの科学振興協会の特別委員会が設置され、数学・物理学分野の研究者と、心理学の研究者が合同で感覚の定量的測定の可能性を議論することになったのです。そして、1940年の最終報告によれば、物理学者側から、「心理学における感覚の測定は不可能である」という結論をぶつけられるに至ったわけです(これらの流れは吉野(1989)やBorsboom(2005, 2022訳)、に詳しいのでぜひご覧ください)。
物理学側の主張は次のようなものです。測定は(物理学の対象がそうであるように)、対象を合成した場合に、測定された数値はそれぞれの数値の和となっているべきである、というわけです。たとえばリンゴが2つあるとき、1つのリンゴの重さが100g、もう1つが102gであるとき、2つのリンゴを合わせた重さは202gになっていなければならない、というわけです。これを測定の加法性(あるいは示量性)といいます。また、この加法性が成り立つ量のことを外延量ともいいます。当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、心理学で扱う感覚量はどうでしょうか。リンゴ2つについての「重さの感覚」は、それぞれのリンゴの「重さの感覚」の和になっているでしょうか。ウェーバーフェヒナーの法則をとりあげずとも、そうならないであろうことは心理学者なら知っていると思います。つまり、感覚量は加法性を持たないのです。そのため、測定の定義に加法性を入れられてしまっては、心理測定はどうしようもありません。
Stevensの尺度
そこで立ち上がったのが、Stevensです。StevensはScience誌で測定について新たな議論を行いました(Stevens, 1946)。それは簡単に言えば、測定とは「対象に数値を対応させる規則」であると主張したのです。また、その対応規則の集合のことを「尺度」とよび、尺度間の間にある対応関係の類型を「尺度水準」と呼びました。この尺度の定義と類型化によって、心理学における感覚量の測定も「ある一つの測定」の範囲に含まれることを主張できるようになりました。すなわち、尺度水準の考え方は、物理学が対象とするものだけが測定できるのではなく、心理的構成概念も含まれるように測定を拡張したわけです。
Stevensの尺度の理論は、対象の数量化の考え方について重要なインプリケーションを持ちます。それは、量と数値の区別です。物理学は成功しすぎて、あたかもその物理量の「数値」が客観的に存在しているかのように錯覚しがちです(物理学者が実際にそのように考えているという意味ではありません)。しかし、実は数値はあくまでわれわれ人間が勝手にある量に対応させているだけにすぎません。量は、自然世界に存在するもので、大きい・小さいといった性質があります。長い、重いといった量は、たしかに大小関係がつけられそうです。しかし一方、数値は自然にそのまま存在するのではなくて、文化的な産物であるということです。たとえば長さの単位は科学的にはメートルが使われますが、アメリカの日常ではヤードが使われます。重さについてもグラムとポンドといったように、単位は文化によって変わってきます。すなわち、たとえば1メートルという長さは自然にそのままあるのではなく、そのような量に1メートルという数値を割り当てる対応規則があるにすぎないのです。また同様に1ヤードも数値を対応づける規則であり、そしてメートル法とヤード法についても変換関係があります(1メートルは1.09ヤード)。すなわち、メートル法でもヤード法でも、ある量を(違う単位ではあるけど)同様に数値に対応づけることができる規則の集合の要素ということができます。これが、Stevensの言わんとしている「尺度」で、つまりはこの対応規則の集合のことです。そして「尺度水準」は後述するように、その集合の分類のことです。
心理学者であればかならず学部生のときに習うあの「尺度水準」に、そのような歴史的な意義あったとは、多くの人が知らなかったのではないでしょうか(実際、後述するように正確に説明するには学部生には難しいので)。いま心理学における測定が再現性問題以降、いろんな角度から問い直されています。いまこそ、Stevensが、そしてその後の数理心理学者たちが、どのように物理学者に対して心理測定の正当性を擁護したのかを理解するべきときではないでしょうか。次節では、Stevensの尺度水準の明確な定義と、この尺度という概念が心理測定に与えた影響などについて解説していこうと思います。
尺度水準と公理的測定論
まず、物理学で提案された、測定の理論を紹介します。それは、いろんな人が同様の理論を提案しているのですが、外延量測定と呼ばれる理論です(たとえばHelmholtz, 1887)。外延量とは、先ほど述べたように加法性を満たすような性質をもつ量のことをいいます。たとえば、長さや重さは外延量です。リンゴの例と同様、長さについても、2つ合わせた量は、それぞれの量の和の数値が割り当てられていることでしょう(あるいは、2つの同じ長さのものを合わせた長さは、倍の数値になっている)。
ある量が外延量であるためには、その量が特定の公理に従っている必要があります。ここで公理とは、「仮に設定された」規則の集まりのことで、そこから定理などが証明されます。公理とは世界についての法則性である必要はなく、「それらが正しいときは定理も正しい」ことが保証されるだけのものです。ただ、長さや量などは外延量測定の公理を基本的には満たしていると考えられているので、メートルやグラムといった単位による長さや重さの数量化は、自然世界を正確に表現した数値であるとみなすことができます。
弱順序
ここで、公理と測定の関係がわかりにくいと思うので、最も単純な測定の公理である、弱順序について説明します。
先述のように、測定では量と数値を区別します。量は自然にあるもの、数値はその量に割り当てられたものです。公理的測定論は、量についてのある規則が成り立つとき、数値としての性質を持ちうることを証明しようとするものです。まず、量についての規則を記述するために、演算子$${\precsim}$$を導入します。$${a\precsim b}$$と書いたとき、$${b}$$は$${a}$$よりも無差別か大きいことを意味します。注意が必要なのは、$${\precsim}$$は数値的な関係(たとえば不等号$${\leq}$$のように)を表しているのではなく、自然に存在する(数量化される前の)量についての順序関係を表している演算子ということです。またこの順序関係は、長さや重さのような物理量だけでなく、好みや「重く感じる」といった心理的なものについても表現できます。なにかしら順序をつけられるものであれば何でも$${\precsim}$$という演算子が使えると考えます。
弱順序の公理はこの記号を用いて、ある集合とその要素について次の2つの規則が成り立つことを要請します。
集合内のすべての要素$${a, b}$$について、$${a\precsim b}$$か$${b\precsim a}$$である
集合内のすべての要素$${a, b, c}$$について、$${a\precsim b}$$かつ$${b\precsim c}$$なら、$${a\precsim c}$$である
1番目の公理が完備性、2番目の公理が推移性と呼ばれます。たとえば集合が果物で、それぞれの要素がリンゴやミカン、などであるとし、$${\precsim}$$が好みを表す順序関係であるとします。完備性はすべての果物について好みを比較可能であること、推移性は好みについて推移律が成り立つことを要請しています。
弱順序の公理が満たされたとき、次の定理が証明されます。
すべての集合の要素$${a, b}$$について、ある実関数$${u}$$が存在して、
$$
a\precsim b\Leftrightarrow u(a)\leq u(b)
$$
が成り立つ。ここで、$${\Leftrightarrow}$$は論理的に同値であることを意味し、左が成り立つとき右が成り立つ、同時に、右が成り立つときに左が成り立つことを指します。すなわち、量として$${a}$$よりも$${b}$$が大きいならば、ある数値に変換する関数が存在して、$${u(a)}$$よりも$${u(b)}$$が「数値として」大きいということを意味しています。
さきほどの果物の例を使って説明しましょう。いま、果物集合の要素について弱順序の公理が成り立つとき、もし$${a}$$よりも$${b}$$を好むなら、「ある数値を返す関数$${u}$$が存在して」、その関数の値について$${u(a)}$$よりも$${u(b)}$$が大きくなる、ということを証明することができます。このように、ある数値に変換する関数の存在と、量と数値の関係が同型[1]になることを示す定理のことを、公理的測定論では「表現定理」といいます。表現定理は、量と数値の間をつなぐ関数が存在して、また量における順序関係を表す$${\precsim}$$と数値の大小関係を表す$${\leq}$$が同型、すなわち量と数値の順序関係が両者間で保存されていることを主張するのです。これはなかなかすごいことではないでしょうか。
続いて関数$${u}$$の性質についても定理が証明できます。実は弱順序を満たすと関数$${u}$$はただ一つ決まるのではなくて、たくさんの関数を考えることができます。そこで、弱順序を満たすような関数$${u_1}$$と関数$${u_2}$$について、次の関係が成り立ちます。
任意の単調関数$${f}$$について、$${u_{1}(a)=f(u_{2}(a))}$$
これは、関数$${u}$$は実はその大きさの順序さえ変えなければどんな変換をしても数値としての意味は同じであることを示しています。すなわち、単調変換を除けば一意に関数$${u}$$が定まるということです。このような関数の性質についての定理を「一意性定理」といいます。弱順序の場合は、「単調増加・減少変換は自由にできるけど、それを除けば関数$${u}$$は一意に決まる」という定理になります。
弱順序のたった2つの公理で本当にそんなことがいえるのか?という疑問もあるでしょう。詳細な証明はしませんが、イメージだけで説明します。果物の例を使います。弱順序の2つの公理を満たすということは、すべての果物について推移律が成り立つように比較可能であるということなので、果物をたくさんの順序グループに分類できることがわかります。たとえば、一番好きな果物グループはリンゴとバナナ、次に好きなグループはミカンとパイナップル、という感じです。同じグループに所属する果物は選好に順序的な違いがない(無差別)同士であるということです。ここで、順序グループに、その順番は崩さないように適当に数値をつけてみましょう。第一グループに10、第2グループに9・・・と順番に数字を小さくして対応させます(負の値になってもOK)。すると、もうすでに果物についてグループ番号を返す関数$${u}$$を構成することができました。たしかにこの関数は$${a\precsim b\Leftrightarrow u(a)\leq u(b)}$$を満たしています。そして、この関数$${u}$$は20から始まってもいいですし、100、90、80と10ずつ飛んでもいいですし、1億、1万、1000、100・・・と差が一定でなくとも$${a\precsim b\Leftrightarrow u(a)\leq u(b)}$$を満たします。このことから、関数$${u}$$はその変換が順序を変えないものであれば、$${a\precsim b\Leftrightarrow u(a)\leq u(b)}$$を満たし続けることがわかります。
外延量測定の公理
公理的測定論の仕組みが少しは伝わったでしょうか。さて、それでは外延量測定の公理を簡単に示しておきます。外延量測定では、$${\precsim}$$に加えて、もう一つ演算子を用意します。それは$${\circ}$$と表記し、連結を意味します。加法性の性質である「2つの量を合わせたとき」ということを表現するために使います。また、これらの公理はあくまで量についての規則であり、数値についての規則ではない点に注意が必要です。なお、以下の公理は村上(1980)に基づいて解説しています。なお、$${\sim}$$は無差別、$${\prec}$$はより大きい、を意味します。
外延量測定の公理
公理1 完備性
公理2 推移性
公理3 同じものを足しても量の大小は変わらない $${a\precsim b\Rightarrow a\circ c\precsim b\circ c}$$
公理4 足す順番にかかわらず量の大小は変わらない $${a\precsim b\Rightarrow c\circ a\precsim c\circ b}$$
公理5 連結操作は結合法則が成り立つ $${(a\circ b)\circ c\sim a\circ (b\circ c)}$$
公理6 何かを足したら、必ず量は大きくなる $${a\circ b\succ a}$$
公理7 2つの量の間に違いがあるとき、その間に中間的な量がある
公理8 連結を繰り返せばいくらでも大きな量を作ることができる
この8つの公理を満たすとき、次の表現定理が得られます。
外延量測定の公理が満たされるとき、実関数$${u}$$が存在して、
$$
a\precsim b\Leftrightarrow u(a)\leq u(b)\\
u(a\circ b)=u(a)+u(b)
$$
これはまさに加法性の性質を満たしていることを意味しています。また、関数$${u}$$の一意性定理について、次が成り立ちます。
任意の正の定数$${α}$$について、$${u_1(a)=αu_2(a)}$$
すなわち、外延量測定についての関数は、単位だけが異なる関数$${u}$$の集合だけに絞られるということです。外延量測定を満たしたならば、長さや重さのように、単位については自由だけど、それを除けば完全に一意に量に対して数値を厳密に割り当てることができるということです。物理学者たちは、外延量測定こそが「測定」なのだと主張したことの説得力はたしかにありそうです。
尺度水準
それではStevensはどのように外延量以外の測定を正当化しようとしたのでしょうか。そのヒントは、一意性定理にあります。外延量は単位の自由を除けば一意に、量に対して数値の割当が決まる厳密なものでした。それなら、それをもう少し緩めて、他の一意な変換についても測定であると認めてみてはどうでしょう? Stevens(1946)は、一意性定理のタイプから尺度水準という概念を提案しました。
比例尺度:正の定数倍を除いて一意 $${u_1(a)=αu_2(a)}$$
間隔尺度:正の線形変換[2]を除いて一意 $${u_1(a)=αu_2(a)+β}$$
順序尺度:単調変換を除いて一意 $${u_1(a)=f(u_2(a))}$$
名義尺度:任意の変換が可能(つまり、一意な測定ではない)
すなわち、これまで説明してきた、外延量測定のような単位を除いて一意なものを「比例尺度」、そして弱順序の公理を満たすものを「順序尺度」と名付けたのです。そして、重要なのが、外延量測定と弱順序測定の間である、間隔尺度という概念を提案したことです。間隔尺度の特徴は定数$${β}$$を足すことも自由にできてしまうことにあります。このことから、加法性を持ちませんし、仮に量がまったくない$${a}$$という対象であっても数値が0になる保証がありません(自由に定数が足せてしまうため)。これが「間隔尺度は原点をもたない」ことの意味です。しかし等間隔性を満たします。それは差については比例尺度と同じ性質を持つことからわかります。差をとると定数項である$${β}$$が消えるので、単位$${α}$$の違いだけになるからです。よって間隔尺度は加法性を持たない「等間隔性を持つ順序尺度」という性質を持つ測定であるといえます。
そして実は、統計分析においては等間隔性を持っていればほとんどの分析ができることがわかります。差の検定はもちろん、相関係数も偏差についての分析なので、絶対的な単位を必要としていません(そもそも標準化という考え方が単位を捨てている)。また、もともとThurstoneが考えた心理測定も、原点を持たない実数空間上の座標点として感覚量を想定していました。つまり、心理測定が想定していた測定を、尺度水準という分類によって部分的に正当化することに成功したというわけです。
間隔尺度の公理
では、実際の間隔尺度を構成する公理はどのようなものがあるのでしょう? これらについては、Stevens(1946)以降、数理心理学者たちがこぞって証明していきました。それらの成果は、Krantsら(1971)がまとめた「測定の基礎(Foundation of Measurement)」という本にたくさん掲載されています。ここでは、最もシンプルな間隔尺度の公理系である差分測定(Scott & Suppes,1958)を紹介します。差分測定は、まさに量の差分という操作$${\circleddash}$$を導入し、対象だけではなくて差分についての順序関係$${\precsim_d}$$を公理化したものです。差分は、数値の差ではなくてあくまで量の違いについての関係である点に注意です。またこの公理の説明も村上(1980)に依っています。
差分測定
公理1 弱順序
公理2 差分も弱順序
公理3 順序的に違いがある対象間の差分のほうが大きい
$${a\precsim b\<space> かつ \<space> b\precsim c\Rightarrow b\circleddash a\precsim_d c\circleddash a\<space> かつ\<space> c\circleddash b\precsim_d c\circleddash a}$$
公理4 同じ差分を含む差分は、相殺して比較することができる
$${a^{'}\circleddash b^{'}\precsim_d a\circleddash b\<space> かつ\<space> b^{'}\circleddash c^{'}\precsim_d b\circleddash c\Rightarrow a^{'}\circleddash c^{'} \precsim_d a\circleddash c}$$
公理5 2つの差分に違いがあるとき、その中間的な差分が存在する
公理6 いくらでも大きな差分が存在する
この公理は、イメージ的には、果物について序列が作れることに加えて、リンゴとミカンの好みの違いと、イチゴとパイナップルの好みの違いについて厳密に大小関係が比較できるということを意味しています。
この公理を満たすとき、次の表現定理が得られます。
$$
a\precsim b\Leftrightarrow u(a)\leq u(b)\\
u(b\circleddash a)=u(b)-u(a)
$$
そして、関数$${u}$$は線形変換を除いて一意、つまり間隔尺度であることが示せます。また、差分という量に関する操作について、数値的な「差」の操作と同型であることも示せます。
すでに述べたように、間隔尺度の発明は、心理測定においてとても重要な意味を持っているといえると思います。間隔尺度でさえあれば、その量の数値自体に意味はなくとも、さまざまな統計分析は意味を持ちうるからです。ただ、差分測定の公理をみたとき、「人間の選択がそこまで厳密なのか?」という疑問を持った人も多いでしょう。実際、人間はそこまで厳密な選択はできないでしょう。しかし、一つのベンチマークとして厳密な選択ができる存在を仮定して、そこから実際の人間がどれくらい逸脱しているのかを考えられるようになったという意味ではとても重要な仕事であるといえるでしょう。
公理的測定論と心の測定
心の測定は正当化されたのか?
ここまでの議論で、公理的測定論によって、感覚量のように外延量じゃなくても、科学的な分析に耐える測定ができる可能性があることを解説してきました。さて、それでは間隔尺度によって心の測定は正当化されたといえるでしょうか。それについては、残念ながらそこまではいえない、という結論にならざるを得ません。それはなぜでしょうか?
なぜなら、公理的測定は人々の順序的な選択と同型な数値表現が可能であることを示しただけであって、心の数量化そのものが可能になったということはいえないからです。いうなれば人々の行動(選択)ルールが特定の公理を満たすとき、その行動の仕方について数値を対応させられるよといっているにすぎず、それが「心の測定」であるとは何も言っていないのです。むしろ、公理的測定論は極めて行動主義的な測定理論であって、心をすっ飛ばしても数量化できてしまうよ、ということをいっているという意味では、心的構成概念の実在が不要であることを示しているとも読むことができます(たとえばBorsboom, 2005)。
また公理的測定論は、感覚量のように、ある人が対象について量を数値として判断しているということはいえても、他の人の数量化と比較することはできません。なぜなら、量に対する数値の割当は、その人の選択ルールに基づいているのであって、他の人とそれが同型である保証はどこにもないからです。よって、個人差を測定するようなパーソナリティについては公理的測定論とあまり相性がよくありません[3]。テスト理論の公理的測定と考えられている加法的コンジョイント測定(Luce & Tukey, 1964)という公理がありますが、これをテスト理論にそのまま応用できるかどうかについてはさまざまな議論があります(たとえばBorsboom, 2015; Heene, 2013)。個人間と個人内の測定の違いについては、下司先生が執筆されたこのシリーズのnote記事にありますので、ぜひご覧ください。
しかし、公理的測定論はさまざまな発展があります。たとえば選択を確率的に拡張したLuce(1959)の選択公理があります。公理については説明しませんが、選択公理が認められたら、2つの対象のうち、片方が選択される確率は次の式で計算できることが証明されています。
$$
P(a\precsim b)=\mathrm{Logistic}(u(b)-u(a))
$$
ここで関数$${u}$$は比例尺度の対数変換であり、定数を足す自由を除いて一意に定まります(そして、確率は関数$${u}$$の差できまるので、定数は消えて確率は一意に定まります)。これはまさにロジスティック回帰と同じ式です[4]。この公理系は、行動と数量化が直接対応しているのではなく、行動はあくまで確率的に変動するものであり、その背後にある行動傾向と数量化$${u(a)}$$が対応すると考えるところに特徴があります。この考え方は、極めて心理学的であり、また確率を取り入れることで統計分析との相性も良くなりました。実際、Luceの選択公理は、統計モデリングの確率モデルとして幅広く活用されています。一方で、公理的測定と確率の関係についてはさまざまな議論があり、十分な正当化になっていないと考える論者もいます(たとえばBorsboom, 2005)。このあたりは、心とは何なのか、どうすれば測定できたことになるのか、など、科学哲学の問題にも関わってくるでしょう[5]。
まとめ
公理的測定論は、数学的にやや抽象度が高く、数学についてのトレーニングを受けないと理解のためのハードルはやや高めです。しかし、心理学においてもっとも特徴的で本質的な研究実践である「心の測定」を真に理解するためにはとても重要な研究分野であるといえます。別に新たな公理を探そう、とかそういうことではありません。これらの体系を理解することで、他の研究分野に対して「心理学はこんなことを考えて心を測定しようとしているのだ」と胸を張っていえるようになれればと思っています。
脚注
数学的には、2つの代数系について、数学的な構造を保つ写像のことを準同型写像(homomorphism)であるといいます。$${u}$$は準同型写像です。
本来はこの変換は「正のアフィン変換」と呼ぶべきものですが、正確さをやや犠牲にしつつ、一般に親しみがある表現を使いました。
加法コンジョイント測定はパーソナリティの測定を基礎づけるのかという議論は、そもそもパーソナリティとはなにか、あるいは心とはなにかという問題と大きく関わります。パーソナリティのような個人差を表す測定は、感覚量のように個人内で弁別されるタイプの心の測定と同一視することはできません。一方で、社会意味空間上の個人差をパーソナリティであると定義すれば、それはそれで別の形で測定を正当化できる可能性があります。その成功例が態度測定になります。詳しくはこちらの資料をどうぞ。
また計算論モデリングで使われるsoftmax行動戦略とも相同的です。
脚注でひっそりと筆者個人の立場を書いておきます。心の測定が可能なのかという問題は、心が実在するのかなど、哲学的な問題にどうしてもつながります。ぼくの直観にすぎませんが、心の実在性を証明するなんてことはたぶんできないでしょう。だからといって心の測定が不可能であると結論づけるのは早いと思います。実在が証明できないことと、心が存在しないことは同値ではないからです。重要なのは、仮に心の測定が可能であると主張するなら、なにを仮定してそれを述べているかを明示的にすることではないでしょうか。心の測定が不可能であるという立場ももちろん、大事な立場です。その場合は、どの仮定が認められないからそういう立場なのかを理解することが大事だと思います。心理学者(すべてではないでしょうが)が心の測定を行っていると自覚しているなら、なにを仮定してそれができているといえるのかを、ぜひ議論しましょう。
引用文献
Borsboom, D. (2005). Measuring the Mind: Conceptual Issues in Contemporary Psychometrics. Cambridge University Press. (仲嶺真 監訳 (2022). 心を測る―現代の心理測定における諸問題, 金子書房)
Heene, M. (2013). Additive conjoint measurement and the resistance toward falsifiability in psychology. Frontiers in Psychology, 4, Article 246.
Luce, R. D. (1959). Individual choice behavior. John Wiley.
Luce, R. D., Tukey, J. W. (1964). Simultaneous Conjoint Measurement: A New Type of Fundamental Measurement. Journal of Mathematical Psychology, 1, 1-27.
村上隆 (1980). 心理物理的尺度構成の基礎について 名古屋大學教育學部紀要, 27 1-15.
Stevens, S. S. (1946). On the theory of scales of measurement. Science, 103, 677–680.
Thurstonee, L. L. (1927). A law of comparative judgment. Psychological Review, 34, 273–286.
Thurstonee, L. L. (1928). Attitudes can be measured. The American Journal of Sociology, 33, 529–554.
Thurstone, L. L. (1931). Multiple factor analysis. Psychological Review, 38, 406–427.
Thurstone, L.L. (1934). The Vectors of Mind. Psychological Review. 41, 1–32.
吉野諒三 (1989). 公理的測定論の歴史と展望 心理学評論, 32, 119-135.