連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第3回:恨みと被害者意識
根深い恨み
いつまでも延々と過去の恨みを引きずっているのは、どこか精神的に未成熟であったり、人間として不健全な印象を受けます。早い話が、潔くない。そんなことに拘泥せず、もっと前向きに生きたらどうなのかと言いたくなる。もっとも江戸時代には仇討ちなんて制度があったわけで、そうなると武士は「雄々しさ」を装いつつも、実は爽やかさとは縁の遠い存在だったのかもしれません。
個人的な話を申しますと、わたしには60年経っても消えない恨みがあります。自分でも少々常軌を逸している気がしますけれど、事実だから仕方がない。小学校のときの体育の教師Rと、彼の仕打ちに対する恨みです。
小児喘息をはじめとして病弱であった当方は、一人っ子のうえ幼稚園や保育園にも行くことのないまま小学校に入りました。そんな経緯から身体を動かして遊ぶ機会が少なかった。父とキャッチボールすらしたことがないのは、少なくとも昭和の子どもとしては珍しかったのではないでしょうか。そうした事情があって、運動神経の発達が明らかに遅れていた。たんに経験不足といった部分もあれば、発達性協調運動障害が疑われる部分もあり(いまだに克服できていません)、とにかく運動においては不器用そのものでした。
さて件(くだん)の体育教師Rは、世の中には運動が苦手な子どもがいることが理解できないようでした。ましてや身体を動かして遊んだりスポーツに興じるのを面白いと思わない子どもがいるなんて想像の埒外らしかった。結果として、わたしのような子どもは(生意気にも)反抗しているか馬鹿にしているかのどちらかである、とRは解釈していたようです。彼の妄想としか言いようがないのですが。
どうすればいいのか分からない
といった次第でRは当方を目の仇にしました。お前は駄目な奴だといった叱責や罵声だけではない。わざと恥をかかせるようにするのですね。わたしには無理なことなど百も承知のうえで「じゃあ跳び箱の手本は春日に示してもらおう」などと、五段重ねの跳び箱へのチャレンジをクラス全員が注視する中で指名する。(予想通りに)無様(ぶざま)に失敗すると、大げさに驚いてみせて笑いものにしようとする。そういった類の陰湿なイジメをするわけです。
わたしだって努力でどうにかなるなら頑張ります。でも跳び箱や鉄棒を家でどう頑張れば良いのか。球技だって子どもの自助努力で上達するものではないでしょう、ましてや興味なんかまったくないのですから。絶望的な気分になりましたね。週のうち何時間か定められている体育の時間は、すなわち当方の自尊心が傷つけられまくる地獄の時間帯なのでした。
とりあえず親に相談してみるといった方策はあった筈です。しかし子どもにとってはそもそもそんな発想は生じないのですね。ましてや恥ずかしさに属する案件なのですから。いきなり話が飛躍しますが、最近はヤングケアラーが話題になります。ご存じの通り、ヤングケアラーとは本来は大人が担うべき家事や家族の世話、介護などを日常的に行っている子ども(18歳未満)を指します。問題なのは、彼らが負担や辛さを感じても、往々にしてSOSを出さない。そのようにする発想がないからです。だから問題が顕在化しない。彼らは「そんなものだ」と思いながら黙々と耐えるしかない。ヤングケアラーの話題で胸が痛くなるのは、自分の子ども時代に鑑みて、適切にSOSを発することの難しさをあらためて認識するからです。今では精神科医として主に大人の患者さんと向き合っていますが、彼らもまた多くがSOSを出せずに「こじらせて」いる。
いずれにせよ、一人で悩みを抱え込んだまま孤立しているのは悲劇です。それが心身の不調につながることもあれば、恨みといった形で心に深く根を張ってしまうこともある。
Rという補助線
Rについては、こうして書いていてもあらためて怒りがこみ上げてきます。おそらく昨今の小学校においては、彼はパワハラとして糾弾されるのではないか。でもRのような精神構造の人物は、決して絶滅したわけではないでしょう。どこにでもいる。
そんな珍しくもない奴に固執しているのはなぜなのか。それはただの恨みなのか。
自分の人生を物語として捉えてみますと、Rの件はわたしという人間のありように大きく関係しています。ああいった屈辱と絶望のせいで性格がねじれた部分もありましょう。神様だか創造主といった存在がいたとしたら、それはずいぶん意地悪なんだなあという意識が当方の世界観に大きく関与している。幼い運動音痴のわたしを嘲笑したクラスメイトたちと、昨今のSNSにおける無責任で残酷な発信者たちとを重ね合わせたりもする。
いっぽう精神科医(援助者)として、辛い思いをしたり途方に暮れている人たちの内面を察したり理解する上ではプラスの経験をしたと考えることもできます。他人の心の痛みを想像できないような人間にならずに済んだのは幸運かもしれません。
それにしてもRは、わたしという物語を俯瞰する際に、まことにくっきりとした補助線として機能します。今や、彼の言動がもたらした影響を手掛かりに自分自身を眺め直すといったスタイルが身についている。これって結構重要なことだと思うのです。我が人生という物語が茫洋として掴みどころのない(そして退屈でありふれた)ものではなく、それなりに語るに足るような気にさせてくれる。そういった意味において、Rは結果的に(逆説的にではありますけれど)当方を支持してくれている。となれば、いつまでもわたしがRに「根を持つ」のも無理からぬ話かもしれません。彼は当方の輪郭を特別なものとして描き出すための重要な補助線なのですから。
ある統合失調症の青年
以前担当していた統合失調症の青年Uは、幻覚妄想は消失したものの引きこもり状態で無為な日々を送っていました。もう少し世間と関わりを持つようアプローチを図ろうとすると、毅然としてそれを拒みます。あることについて決着をつけなければ何もするわけにはいかないと主張するのですね。ではその決着をつけるべき事柄とは何か。
およそ15年前、昭和〇年〇月〇日〇時〇分に父が僕に「お前は駄目な奴だ」と言い放った、それが許せないので何もする気になれないのです――そのようにUは断言します。ならば父が謝るか前言撤回をすれば気が収まるのか。それは不可能なのです、なぜなら父は既に交通事故で亡くなっていましたから。
という次第で、Uは絶対に決着のつかない理由を盾にして無為な生活を正当化するわけです。君の父はもう亡くなってしまったのだから、自分が駄目な奴ではないところをせめてわたしに示してくれれば良いではないかと提案しても、絶対に承服してくれません。その度に〇年〇月〇日〇時〇分というところを強調したがるUの姿に、正直なところ当方はうんざりしてしまいました。
しかし今になって振り返ってみると、Uは彼なりに自分の無力感や挫折感を正当化し、のみならず自分の人生を分かりやすいものにする補助線として父の暴言に固執していたのだろうなあと思うわけです。日時のみならず分単位で正確さにこだわるあたりに病理を垣間見ることも可能ですが、考えようによっては父の言葉にすがって必死に現状維持を図っていたとも考えられる(そしてそれ以上踏み出すのは、実際に無理だったのでしょう)。
他人を恨んだり被害者意識にすがって生きるというのは、率直な所、あまりエレガントな生き方とは感じにくい。でも人生という物語の補助線と捉えてみれば、それが必要な人は決して少なくない気がするのです。武勇伝だけで成り立っている人生なんてあり得ないわけですし。