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キャパの本を鞄に入れて(著述家・編集者・写真家:山本高樹) #流離人のノート 第1回

 最初の旅のきっかけは、ただただ、逃げ出したかったからだった。
 大学も、就職活動も、人付き合いも、すべてに嫌気がさしていた。何もかもうまくいかず、どろどろに煮詰まって、どこにも出口を見つけられないでいた。何より、誰より、そういう自分自身に、一番うんざりしてしまっていた。
「……ヤマモト君は、大学、現役で入ったんでしょ? だったら一年くらい、大学休んじゃってもいいと思うんだよね。どこかへ、長めの旅でもしてきたら?」
 当時、脚の怪我の治療で通院していた鍼灸院の先生に、ごく軽い感じでそう言われた。八方塞がりに煮詰まっていた僕は、その言葉を真に受けて、アルバイトで旅費を貯めて旅に出ることを、本気で考えるようになった。
 最初に一人で海外に行くとしたら、ヨーロッパだろうか……。そう思案していた頃、同じ学生寮の友達が、これまたごく軽い感じで、こう言い放った。
「……どうせヨーロッパまで行くんだったらさあ、飛行機は使わずに、シベリア鉄道か何かで、全部陸路で行っちまえば?」
 この冗談半分の彼の意見も、僕はそっくりそのまま採用することにして、初めての海外一人旅としては、いささか無謀な計画を練り上げた。
 神戸から上海まで船で渡り、中国国内を列車で巡った後、北京からモスクワまでシベリア鉄道で移動。バルト三国とポーランドを経由してベルリンに抜け、二カ月間有効のユーレイルユースパスを使いながら、時計回りにヨーロッパをぐるりと一周。最後はロンドンで片道航空券を見繕って、日本に帰国。全部で約四カ月の旅。
 出発前にこの旅の計画を周囲に話した時、僕はいつも、ちょっとイキがって虚勢を張っていたのだけれど、実のところ、僕自身の内側には、本当の意味での目標や意気込みのようなものは何もなく、からっぽのままだった。自分を知る人が誰もいない場所に逃げ出せるなら、たぶん、どこでもよかったのだ。

 容量四十リットル弱の黒の2WAYバッグに、パスポートとトラベラーズチェックと少しの現金、最低限の着替えとタオル、洗面道具を詰めた。服装は、上野アメ横で買った米軍放出品のフィールドジャケット、褪色したジーンズ、野暮ったい革のワークブーツ。一人旅の経験のまったくない青二才だと、すぐにわかってしまうような格好だった。
 旅の日記を書くためにリング綴じのノートと筆記具は用意したが、カメラは持っていなかったので、最初の旅もカメラなしで行くつもりだった。出発前、カメラを趣味にしていた実家の父親がそれを伝え聞いて、「カメラは、ないよりはあった方がいい」と、手元に余っていた安価なコンパクトフィルムカメラを一台送ってくれた。当時の僕は撮影技術も何もまったく知らなかったのだが、わざわざ送られてきたものを置いていくのも何なので、数本のフィルムと予備の乾電池とともに、そのカメラも鞄に入れておくことにした。
 本は、一冊だけ用意した。初めは、沢木耕太郎さんの作品で未読のものから選ぼうとして、彼が翻訳を手がけた写真家ロバート・キャパの伝記『キャパ その青春』『キャパ その死』の二冊を考えていた。ただ、分厚いハードカバー二冊は、旅で持ち歩くには重すぎる。そこで、キャパ自身の著作にしようと考え直して、文春文庫の『ちょっとピンぼけ』という本を持っていくことにした。
 今思うと、最初の旅であの本を選んだのも、何かの符合だったのかもしれない。

 初めての海外一人旅は、控えめに言っても、想定外のトラブルの連続だった。
 船で上海に上陸したその日のうちに、詐欺師にだまされ、日本円に換算して五千円ほどの金額を巻き上げられた。ロシアから列車でエストニアに移動しようとした時は、当時ほとんど存在を知られていなかったヴィザを所持しておらず、役人に賄賂も渡さなかったので、国境から追い返された。ドイツのある街でうっかり宿を取りはぐれた夜は、得体の知れない男たちにつけ回され、公園の遊具の影に一人隠れて、怯えながら朝まで過ごしたこともあった。
 それでも、初めて目にする異国の地と、そこで暮らす人々の姿に、僕の心は毎日、激しく揺さぶられた。穏やかで美しい光景ばかりではなかった。哀しみが滲む、どうにもやりきれない不条理な光景にも数多く遭遇した。それまでの自分が、いかに何も見ず、何も知らずに生きてきたのかということを、嫌というほど思い知らされた。
 見知らぬ世界と対峙したあの旅で、キャパの『ちょっとピンぼけ』を読んだことは、外界に対する僕の中の感度を、これまでになく引き上げてくれていたように思う。旅の間、何度くりかえしあの本を読んだかわからない。中国の辺境の土漠を横断する列車の寝台で。シベリア鉄道の窓辺の席で。霧に包まれたドナウ川のほとりで。ギリシャからイタリアに渡るフェリーの甲板で……。彼の言葉に、写真に、僕はすっかり心を奪われた。それらを胸の裡で反芻しながら、僕は、父から譲られたカメラをおぼつかない手つきで構え、目の前に広がる光景を、一枚一枚、記録していった。
 ロバート・キャパ、本名アンドレ・フリードマンは、一九一三年、ハンガリーのブダペストに生まれた。ユダヤ人の家庭で育った彼は、迫害から逃れて辿り着いたパリで、ロバート・キャパと名乗る報道写真家として活躍するようになる。スペイン内戦の取材中、最愛のパートナーだったゲルダ・タローを事故で亡くしてからも、キャパは世界各地の戦場を巡り、常に自らの身を危険に晒しながら、鮮烈な写真の数々を撮影し続けた。一九六五年、第一次インドシナ戦争を取材中に、地雷に斃れてしまうまで。
 『ちょっとピンぼけ』には、キャパが第二次世界大戦のさなかにアメリカからイギリスに船で渡り、北アフリカ戦線、イタリア戦線、ノルマンディー上陸作戦、パリ解放などを取材した日々の逸話が、彼特有の軽妙な、そしていささか話を盛り気味の文体で綴られている。それらは、戦勝国に都合のいい一方向からのみの視点ではなく、戦禍に苛まれる弱い立場の人々の姿や、戦場で人が人の命を奪うことのおぞましさ、やりきれなさをも、克明に写し出していた。
 本に収録されていた写真の中に、解放直後のフランスのある街で撮影された一枚がある。キャパはその写真で、ドイツに占領されていた時期にナチスに協力していたフランス人女性が、強制的に髪の毛を剃られ、街から追放されていく様子を捉えていた。幼い子供を抱えて歩くその女性を、嘲り笑いながら追い立てる人々……。カメラのファインダーとレンズを通じて、ありのままの世界を視るという行為の本当の意味を、僕はキャパの本を通じて知った。
 キャパの本を読みながら、四カ月ほど異国を旅したからといって、それで何かわかりやすい答えを見出せたわけではない。わかったのは、自分は何一つわかっていない、ということだけだった。それでも、こんなからっぽな自分でも、いつか……写真と、そして文章で、誰かに何かを伝えられるようになれたら……と、おぼろげながらも思い描けるようになったのは、あの旅と、キャパの本のおかけだったと思う。

 最初の旅から、二十四年を経た、ある日の午後。僕は、東京の吉祥寺にある大型書店の中をぶらついていた。その少し前に、僕が写真と文章を手がけた本が発売されたので、その本がどんな具合に店頭に置かれているか、見ておきたかったのだ。
 店内の検索機で確認した棚の場所に行き、並んでいる本の背表紙に、目を走らせる。ほどなく見つかった、自分の本の隣には……かつてダヴィッド社から刊行されていたハードカバー版の、キャパの『ちょっとピンぼけ』が置かれていた。
 並んだ二冊の本の背表紙を前に、僕はしばらくの間、その場を動くことができなかった。
 旅も、世界も、まだ何も知らなかったあの頃の僕に、「いつか、お前の書いた本が、キャパの本の隣に並ぶ時が来る」と耳打ちしたとしても、絶対に信じてもらえなかっただろう。人生には、時に、想像もつかないような巡り合わせが用意されていることがある。

【著者プロフィール】

山本高樹(やまもと・たかき)
著述家・編集者・写真家。2007年から約1年半の間、インド北部の山岳地帯、ラダックとザンスカールに長期滞在して取材を敢行。以来、この地域での取材をライフワークとしながら、世界各地を取材で飛び回る日々を送っている。主な著書に『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々[新装版]』(雷鳥社)『ラダック ザンスカール スピティ 北インドのリトル・チベット[増補改訂版]』(地球の歩き方)『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』『旅は旨くて、時々苦い』(産業編集センター)など。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』(雷鳥社)で第6回「斎藤茂太賞」を受賞。

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