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連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第6回:忘却する技術(2)

悔しい気持

 いわゆる異世界ものと呼ばれる物語(アニメやゲームやラノベ)には、わたしたちがしばしば痛感する「あのとき別な判断をしてさえいれば……」といった類の悔しさが反映されているのかもしれません。「別な判断さえしてい」たらどうだったのか。そのような発想に共感を覚える人が多く、だからたちまち世間に広がり、ひとつのジャンルになった。たしかに運命の分岐点を辿り直してみたくなる気持はよく分かります。

 だがそれで心は救われるのか。現実に戻ってみれば余計に惨めにならないか。

 もしかすると「別な判断」をしても、結局はめぐり巡って現在と同じ状況になってしまうのかもしれない。いや、もっと残念な状態になってしまっている可能性だってありましょう。そんなことは誰にでも見当がつく。でもやはり悔やんでしまう。

 悔しい気持というのには、特有の不快感が伴います。心残り、地団駄を踏みたい気分、今さらどうにもならない腹立たしさ、情けなさ、自己嫌悪、もどかしさ等々。まさにいつまでも燻りかねない案件です。少なくとも自分の判断や振る舞いで回避できた可能性があるがために、なおさら悔しさはいつまでも付きまとう。自業自得ならばまだ反省の余地もありましょうが、所詮は運が悪かっただけといったケースにおいては、心情的に、運が悪かったからと諦めるなんて無理でしょう。神様に文句を言うわけにもいかないので、泣き寝入りを強いられているような理不尽な気分すら生じてきます。人によっては、そこで遣り場のない被害者意識が発動してしまうかもしれません(第3回参照)。

 悔しさなんて感情が起きなければ、人生はもっと平穏かもしれない。しかし、少なくともわたしは悔しさがあってこそ人間は向上するのではないかという気がしている。気がしているだけで、もしかするとそんな発想はただの思い込みではないかという疑いも持ってはいるものの、やはり否定をするだけの確証はない。しばしば自己実現こそが生きる意味であるみたいに言われることがあり、それには当方も同意はするのですが、自己実現なんてどうでもいいまま朗らかに生きている人が現実に存在するのを見ると、自己実現とはただの迷信ではないかと疑わしくなることもあるのです。同様に、悔しさという感情のプラス面に関しても、似たような疑惑を覚えないでもない。が、今さら迷信であるとは言い切れないといったところです。

保留する、ということ

 いつまでも嫌な記憶が心を苛むのは、詰まるところ「悔しさ」がペアとなっているからなのでしょうね。悔しさが燃料となって、嫌な記憶は延々と燻りつづける。そしてその悔しさは、今さらどうにもならないからこそ悔しさとして存在している。このままでは人生という物語も停滞したままになってしまいかねない。

 嫌な記憶は、即座に(しかもピンポイントに)消すことはできません。無視するのも、やはり不自然な方策だと思われます。無理に無視なんかすると、余計に対象を意識することになって逆効果となるでしょうから。

 ここでひとつ提案をしてみます。忘れなくてもいい、無視しなくてもいい。その代わり、とりあえず横にそのまま置いておく、あるいは空想上の箱の中へ放り込んでおく――つまり保留(ペンディング)のまま放置してみてはどうか、という提案です。わたしたちにはしなければならないことがたくさん控えています。いつまでも嫌な記憶に囚われているわけにはいかない。悔しさに拘泥しているわけにはいかない。そんなことで足を引っ張られるなんて冗談じゃない。忘れようとする態度も、無視する態度も、どちらもどこか嫌な記憶を過剰に意識している。だからそんな余計なことをせずに、「いつまでも関わってなんかいられないんだよ!」と吐き捨てるように宣言して、そのまま脇に放置する。保留と書いた空想上の箱に投げ入れておく。

 いや、そんなことができるなら苦労しないよ、とツッコミが入りそうです。それは十分に承知しています。でもわたしたちの心は、それが可能なように出来ています。たとえば「好きだけど嫌い」「怖いけど興味がある」といった具合に心は矛盾した感情を平気で抱え込めます。何かを考えつつ、同時に別なことを思い浮かべることだって可能です。精神の働きは決して融通の利かない一本道ではなく、迂回路や脇道がある。という次第で、保留しておこうと腹を括ればそれは不可能というわけではありません。にもかかわらず保留するのを躊躇してしまうのは、それがどこか「誤魔化し」「一時しのぎ」的な安直なイメージにつながっているように感じてしまうからではないのか。

 実は、保留をするにはある程度の精神的な強さ(度胸、と言い換えてもよいかもしれません)が必要です。保留をしておいて構わない、そうやって時間が経つうちに「嫌な記憶」の毒々しさは自然に薄らいでくるものだし、余裕が生じれば心の視野も広がり、すると「嫌」な部分もあらためて吟味できる。往々にして、吟味し直せば苦笑いが生じてくるものだ、と前向きに考えられるようになるには、相応の成功体験――つまり保留してみたら上手くいったという経験が必要です。臨床医としての感想を述べれば、なるほど嫌な記憶に囚われてしまう人たちは、保留という方法論において成功体験が乏しい場合が多いようです。そしてその乏しさは、真面目とか真剣といった表現に置き換えられて正当化されているようです。

 保留して時間を稼ぐ。これが肝要だと思います。やってみたことがなければ、練習してみてください。もちろんPTSDレベルならば、同時にきちんと治療を受けるべきはありますが、その治療とは結局のところ保留をしっかりできるようになるというのが目標になるのだと思います。

 忘れる技術とは、忘れることではなく保留する度胸である、というのが結論ですね。そして保留を上手に行えるようになると、かなり人生は楽になるような気がします。

【著者プロフィール】

春日武彦(かすがたけひこ)
精神科医。都立松沢病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。保健師やケアマネ等を対象にしたスーパーバイズや研修などの活動も多い。著書多数。

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