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連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第4回:執着と優先順位

心の中にいつまでも輝く宝石のような思い出ばかりがあれば、それは素晴らしいことでしょう。しかし、実際には後悔や嫌な思い出、つらい記憶、どうしても消せない恨みなどが心を占め、離れない思いに苦しむ人は、とても多いのではないかと思われます。そのような思いへの対処法について、精神科医の春日先生に様々な事例を通して、お書きいただく連載、第四回です。

死ぬのが怖い

 昨年、恐怖をテーマにした本を書きました。その中では「死ぬのが怖い」とそれこそノイローゼ状態になっている人たちについても言及しました。

 自分がいずれ死ぬと思うともうそれに圧倒されて何も手につかない。気分を変えようとか、何か楽しいことや面白いことで気をまぎらわせようとしても、全然上手くいかない。世の中の人たちが、死を気にせずに日々を営んでいるのが信じられない。もはや自分が変なのか、それとも世間の大多数のほうが変なのか、それすら分からなくなってくる。と、そのように彼らは苦しむわけです。

 まあ大概は、程度の差こそあっても死には本能的な恐怖を覚えるでしょう。なるほど「死にたいくらい辛い」と思うことはあっても、「だから死のう」とはならない。あれこれ事情があるから無責任には死ねないのかもしれませんが、それでもやはり死には抵抗があるでしょう。それが普通です。

 死ぬのが怖いのは当然としても、死は避けられない。ならば死のことなんか意識から追い出すのが賢明です。実際、多くの人たちはそうしている。にもかかわらず、意識から追い出すどころか逆に執着してしまっている。執着すればどこかに着地点が見出されるのか。そうはいかずに延々と苦しんでいる。そんな人たちがいる。

 彼らの問題は、優先順位という言葉で捉え直すことができましょう。生きていくために我々は、常にさまざまな事案に優先順位をつけなければならない。それをしなければ動きが取れない。何もできません。今、まずは何をすべきか。後回しにしても構わないのは何か。そのような判断が常に求められる。でも別に難しく考え込まなくとも、その優先順位は自ずと決まってくることが多い。その「自ずと」という部分が、常識であったり日常感覚であったり生活態度に密着しているからです。

 そして我々は、「死ぬなんて嫌だけど、それより夕飯の支度をしなくちゃね。食べないでいたら、それこそ死んじゃうし(笑)」といった調子で日々を送っていく。死がどうした、なんて抽象的な話は生活者の優先順位においてうんと低いのです。にもかかわらず「死ぬのが怖い」と震えるのが優先順位のトップになっているとしたら、明らかに逸脱している。精神的に健康な状態とは考えにくい。

優先順位のこと

 語弊があるかもしれませんが、世間ではしばしば「狂っている」という言葉が使われます。それは眉をしかめたくなるような社会の風潮だとか、ノーマルや良識の崩壊といったものに対して発せられる場合もあれば、個人の考え方や振る舞いに対して発せられるときもありましょう。ではここであらためて「狂っている」とはどのようなことなのかを考えてみます。

 わたしとしては、「狂っている」というのは(支離滅裂といった状態はとりあえず除外します)、優先順位が常識から大きく隔たっている状態だと思っています。本来的には、だからダメであるとかイケナイといった判定とは別の次元にある筈ですが、往々にして否定的な意味合いを持つ場合が多い。

 妄想に囚われている人は、生活者として破綻する場合が少なくない。心の中で「オレはアレキサンダー大王の生まれ変わりだ」と本気で思っていたとしてもそれは本人の勝手です。でもそれが意識として優先順位のトップ・スリーのレベルに立ってしまったらどうなるか。誰かが気軽な調子で話し掛けてきたらそれに対して「貴様、それがアレキサンダー大王に対する態度か。無礼者、成敗してくれる!」と怒り出し、あまつさえ危害を加えようとしたらトラブルになるでしょう。間違いなく「狂っている」と言われるでしょう。

 妄想は、妄想そのものが害悪なのではない。それによって優先順位がおかしくなり、二次的に不適切な言動に結実してしまったときに問題となるわけです。

 わたしたちは誰もが多かれ少なかれ被害的な気分になることがあります。「自分ばかり損をさせられている」「あいつは上手く立ち回りやがって。おかげでこちらにしわ寄せがくるじゃないか」などと思うことが珍しくない。人間はいくぶん被害的になってしまうように精神構造が出来上がっている気がします。

 けれども、被害者意識が暴走して「被害妄想」レベルになると、ときとして日常を円滑に営めなくなります。「スパイがうようよしているから、家の外には一歩も出られない」とか「会社の全員が結託して、オレを罠に陥れようとしている」「あそこのラーメン屋で食べたら、いつものラーメンとちょっと味が違った。毒が混ぜられていたに違いない。オレを殺そうとしているのだろうか」などと荒唐無稽な話になりかねない。当人は切実だろうが、周囲は困惑せざるを得ない。それどころか勝手に「逆襲だ」「先手必勝でやつけてやる」などと穏やかならぬ行動に走るケースだってある。

 その人なりの価値観や優先順位に文句をつける筋合いなんかありませんが、それが世間一般と大きく隔たる場合には、生きていく上で厄介さに直面しかねないのは事実でしょう。

どうしても執着してしまう

 「死ぬのが怖い」という考えに執着してしまう(あるいはそれが優先順位のトップに位置してしまう)精神のありように、もう一度注目してみます。それで生活に支障が生じるようなら、何らかの対処が必要です。「高所恐怖症」とか「先端恐怖症」のように「死恐怖症」と捉えれば良いのか。それではレッテルを貼っただけになってしまうでしょう。

 むしろ強迫性障害の一部と捉えたほうが現実的な気がします。強迫症状(それが馬鹿げていると思いつつ、どうしてもそれを頭の中から払いのけたり、行動化を止められない状態。いくらしっかり確認をしても、外出先でストーブやコンロの火を消し忘れたのではないかと心配になり、用事を途中で切り上げてでもあわてて帰宅するとか、同じように戸締まりが気になるとか、手を洗っても洗っても黴菌やウイルスが付着している気がして延々と手を洗い続けストップできないとか)はさまざまな原因で出現するので強迫性障害と呼ばれるのですが、ここではいわゆる強迫神経症のひとつとして考えたい。

 心理的要因で強迫症状が出現する理由は、いまひとつ明らかになっていないようです。ただし精神科医として経験的な話をいたしますと、強迫神経症で苦しむ人は一見したところは穏やかで常識的な人が多いように感じる。だが面接を重ねていくと、意外なほど攻撃的であったり激しい感情を心の奥に秘めている場合が少なくない。そのギャップに、驚かされることが結構あるのです。

 攻撃性が強くても、彼らはそれをあからさまに露出させたりはしない。そんなことはするべきではないと弁えている。それが常識であり理性であると認識している。にもかかわらず、世の中には気持を抑えきれないような腹立たしい現実、ムカつく事態、理不尽な状況が持続したりするわけですね。怒りと我慢とで葛藤が生じる。ではそんな状態にどう対処すれば良いか。

 その処理法のひとつとして、「不毛なことに執着する」といった方策があるという説があります。火の消し忘れや戸締まりの不備や手をいつまでも洗い続けるとか、そういったことに執着することで心の中から怒りのエネルギーを放出させる。実際、強迫症の症状は当人を消耗させます。それによって怒りのエネルギーを低下させるのだ、と。

 わたしとしては結構納得がいく説です。「死ぬのが怖い」に執着し過ぎる人も、もしかすると怒りや、さもなければ何か本人が持て余しているような悩みをそれこそ「骨抜き」にしてしまう効果を(無意識のうちに)期待しているのかもしれない。治療としては、心の内面を医療者とともに探っていく方法が正攻法でしょうが、抗うつ薬の一部には強迫性障害に効果があるとされているものがありますし、気分安定薬というカテゴリーに属す薬剤が有用かもしれません。

 なお、なぜ人によって火だの戸締まりだの手洗いだの死が執着の対象になるのか。過去にそれにつながるエピソードがあったのかもしれませんし、もっと象徴的な意味合いがあるのかもしれませんが、はっきりしないケースも多いようです。

【著者プロフィール】

春日武彦(かすがたけひこ)
精神科医。都立松沢病院精神科部長などを経て、現在も臨床に携わる。保健師やケアマネ等を対象にしたスーパーバイズや研修などの活動も多い。著書多数。

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