連載「わだかまり」と「とらわれ」――過去を振り払う(精神科医:春日武彦) 第5回:忘却する技術(1)
ピンポイントで忘れる
催眠術は、どれくらい効き目があるものなのでしょうか。暗示によって深層心理へダイレクトに働きかけるわけですから、神経症レベルの悩みや諸症状ならカウンセリングや認知行動療法よりも早く確実に効果を示しそうです。しかし催眠術治療を謳い文句にしているクリニックなんてあまり耳にしたことがありません。カリスマ的な催眠術治療師がいてもよさそうな気がするのですが、昨今では、治療中にセクハラを受けたなんてトラブルの真偽を巡って炎上するリスクのほうが大きいかもしれません。
もしも「嫌な記憶」をピンポイントで消し去ってくれるならば、催眠術を受けるのも吝(やぶさ)かではない――そんな人は結構多いのではないでしょうか。多少は胡散臭くても、不快な記憶、辛い記憶から解放されるのだったら、医療保険の対象外であろうと受診したくもなりましょう。
そこで重要なことは、「ピンポイントで」という部分でしょうね。記憶喪失になりたいわけではない。過去をすべて捨て去りたいわけでもない。「あの」嫌な記憶だけを、さながら悪性腫瘍をメスで切り取るようにして削除したいわけです。でもそんなことは可能でしょうか。
精神の連続性
たとえばわたしが学会の口頭発表で大失敗をしでかしたとしましょう。会場の出席者から嘲笑されたり呆れられりした。当方は恥ずかしいどころか絶望感や無力感、孤独感すら覚えるに違いありません。あるいはどこへも向けようのない怒りや自己嫌悪に駆られるかもしれない。そして以後は気持が過敏になってしまい、ちょっとしたことでも口頭発表での失敗をありありと思い出して、呻き声を上げたくなってしまうかもしれません。
さてそんなときに、学会でのみっともない出来事をすっかり頭の中から拭い去ってしまえたなら、以後のわたしは平穏な生活を送れるようになるのでしょうか。
なるほどあの生々しい記憶が失せてしまえば、さし当たって心の平和は取り戻せそうです。でも失敗の記憶はただそれだけが石ころのように心の中に居座っていたわけではありません。「あの」嫌なエピソードをきっかけに、学んだ知恵もあるでしょう。同僚がどんな態度を示したかによって、彼らの人柄を理解する手掛かりを得たかもしれません。自分自身の弱点や欠点をあらためて思い知ったかもしれない。己の心の「器の大きさ」を知る良い機会となった可能性も高い。
つまりわたしたちは、何らかの強烈な出来事に遭遇すれば二次的、三次的に内面に変化が生じます。トラウマが残るかもしれないものの、そのいっぽう生き方や精神生活は修正されます(必ずしも良い方向に修正されるとは限りませんが)。たとえ失敗の記憶が消滅したとしても、内面の変化はそのまま残る。
記憶の消滅とは、換言すれば、わたしたちの心の軌跡の連続性が断たれてしまうということです。これはかなり気味の悪い現象ではないでしょうか。自分の内面に変化があったのは、心の内奥を探ってみれば分かります。だがなぜそうなったのか、そこの部分は空白になっている。断絶が生じている――そんな状態は不安を立ち上がらせるでしょう。下手をしたら、自分の心を信じられなくなってきそうです。生々しい「失敗の記憶」と引き換えに、当惑や不安を得るのでは意味がないでしょう。
わたしは冗談半分に「嫌な記憶を催眠術によってピンポイントで消してもらう」などと夢想したわけですが、そんな願いが実現してもおそらくそれが幸せに直結することはなさそうです。ますます事態は錯綜してしまいそうな気がします。たとえ災害とか暴力の被害に遇うといった類の、つまり自分にはまったく落ち度のない案件であっても、やはり不連続性はわたしたちを脅かしそうに思われます。
物語としての自分
さきほど申した「心の軌跡の連続性」とは、つまり自分を物語として理解するということです。たとえ理不尽な出来事であろうと、悲惨きわまりない出来事であろうと、やはり精神の連続性は保たれていたほうがベターです。
いわゆるPTSDにおいては、嫌な記憶が執拗に甦ってきます。些細な連想によって、いきなり辛い記憶が「またしても」襲ってくる。そして当人を混乱させ苦しめる。普通ならば時間の経過が癒やしとして作用する筈なのに、ちっともそうならない。
その理由は、もっと別なストーリー(あのとき別な判断をしてさえいれば、とか、あの日あそこへ出掛けさえしなければ、といった種類の想像ですね)を頭に思い描くことで過去を「生き直す」という営みを我々はせずにはいられないからです。そんなふうに思考するのがヒトというものであり、本来はそれが教訓や心の成長へ与するのに、あまりにも遭遇した案件が毒々しかったために嫌な記憶の反復といったレベルに留まってしまう。そしてそれがために悪循環を招き寄せる。
もっと別な物語だってあったかもしれないけれど、わたしは最悪の物語を体験してしまった。だが起きてしまったのは仕方がない。重要なのは、こんな自分がこれからどんな物語を生きていくかである。と、そんな具合には、なかなかいかないのが残念なところではあります。しかしとにかく物語として続いているからこそ立ち直る可能性も救いも潜んでいる、とは言えましょう。
ここに一篇の小説があって、主人公はとんでもなく理不尽な目に遇ってしまった。そのときの心の傷手から主人公は回復できずに苦しんでいたが、たまたま転んで頭を強打したら悲惨な記憶が上手い具合に消失してしまった。おかげで主人公は気を取り直して前向きな人生を送るようになった。――そんなストーリーであったら、読者はそのご都合主義に呆れてしまうでしょうし、たとえ主人公が幸せになったとしてもリアリティーを感じられないし共感も覚えないでしょう。主人公の人生すらチープに映り、くだらない小説だなあと思うに違いない。
そんな次第で、ピンポイントで忘れるなんてことは期待しないほうが賢明なようです。今回のタイトルは『忘れる技術』となっていますが、忘れるイコール削除と考えても無益であるとは言えましょう。ではどうするか。話は次回に続きます。