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砂漠の街の先生(著述家・編集者・写真家:山本高樹) #流離人のノート 第2回

 異国で初めて友達になった人は誰かと訊かれたら、僕は、M先生、と答えると思う。彼にとって、僕が友達と呼べる存在であったかどうかは、わからないけれど。
 M先生と知り合ったのは、中国を西へ西へと旅していた途中、甘粛省にある柳園という街に立ち寄った時のことだった。世界文化遺産の莫高窟のある敦煌に行くには、当時、柳園からバスで片道三時間ほどかけて移動する必要があった。小さな街の周囲には、ところどころに塩が白く析出している、砂礫と土くればかりの荒野が広がっていた。線路沿いに連なる電柱と電線以外、視界に入るものは何一つなかった。
 その日、西安からの列車を柳園で降りた僕は、敦煌までのバスの切符を窓口で買おうとしたのだが、中国語を全然話せないのを見透かされて、結構な額のおつりをごまかされそうになった。ろくに通じない英語でワーワー言いながら窓口で粘っていたところ、その一部始終を目にして英語で声をかけてきてくれたのが、M先生だった。
 M先生は、柳園にある学校の英語教師だった。漢民族である彼はひょろりとした体つきで、少し気弱そうな面長の顔に、四角いメタルフレームの眼鏡をかけていた。年齢は、当時の僕と同じ二十代前半か、少し上くらいだっただろうか。大学時代の友達の一人によく似ていたので、その風貌は今でもよく憶えている。
 敦煌行きのバスに乗り込むと、番号で指定されていた座席の隣は、偶然にも、M先生の席だった。二日間の休みを利用して、柳園の鉄道駅で働いている同年代の友達と二人で、敦煌に遊びに行くのだという。鉄道員の友達はほとんど英語が話せないのだが、彼も僕の大学時代の別の友達にそっくりで、やや小柄でがっちりした身体に、頬に赤味のさした丸顔という風貌だった。
 生まれて初めての海外一人旅なのに、ガイドブックすら持っていなかった僕が、あの砂漠の地でつつがなく過ごせたのは、M先生たちのおかげだった。敦煌の宿の情報をまったく知らなかった僕を、二人は、全員で雑魚寝ができる部屋のある宿に泊まろうと誘ってくれた。一人あたり一泊四元(当時の日本円で百円程度)のその部屋には、天井からぶら下がっている裸電球が一つと、錆の浮いた鉄の寝台とマットレスが三つあるだけだったが、素泊まりにはそれで十分だった。
 宿の部屋に荷物を置いた後、僕たちは古ぼけたボックスワゴンのタクシーに乗って、敦煌の郊外にある鳴沙山という砂丘に向かった。車窓の先に現れた砂丘は、風に大きく波打つような、なめらかな曲線の陰影に彩られていて、砂漠という言葉から連想するイメージを、そっくりそのまま具現化させたような姿をしていた。
 鳴沙山の入場料は、外国人は倍額になるらしいのだが、二人は僕の分の入場券もこっそり人民料金で買ってくれた。観光客向けのラクダには乗らず、僕たちは靴と靴下を脱いで、踏み込むたびに足首までめり込む砂丘を、わけのわからない雄叫びを上げながら駆け上がった。両手両足を使って斜面をよじ登り、ぜいぜい息を切らしながら砂丘の頂上に辿り着いた時、砂トカゲが一匹、砂の上に尻尾の跡を残して逃げていったことを、なぜか今も憶えている。はるか彼方まで連なる砂丘の先には、滴り落ちる寸前の線香花火のような夕陽が見えた。
 その日の夜は、敦煌の街の広場に現れる夜市に、三人で繰り出した。いくつか軒を連ねていた屋台から、M先生は、茹でた豚肉とモツを刻んでキュウリと香草とピリ辛のタレであえた料理を調達してきた。先生の好物なのだという。鉄道員の彼は、三人が座れる椅子とテーブルを確保し、ぬるい瓶ビールを何本も買ってきた。
 赤いプラスチックのコップにビールを注ぎ、「カンペーイ!」と叫びながらかち合わせ、ぐいと飲み干す。M先生はそこまで酒を飲めない人だったが、鉄道員の彼はかなりの酒豪で、僕たちは調子に乗って、次から次へと瓶ビールを空けた。テーブルの上の空き瓶はどんどん増えていって、十三本目になった頃、面倒になって数えるのを止めた。
 突然、広場を照らしていた電球が消えて、真っ暗になった。夜の十二時を過ぎて、夜市の時間が終わってしまったのだ。僕たちは、笑った。椅子からのけぞり、テーブルを叩きながら、バカみたいに笑い続けた。
 翌朝、本来の目的だった世界文化遺産の莫高窟にも、三人で行くには行ったのだが、二日酔いの頭痛があまりにもきつすぎて、今となっては、どんな様子だったかよく思い出せない。

 敦煌で二泊した後、さらに西のトルファンに向かう列車に乗るために、僕は、バスで柳園の街に戻った。一日早く戻っていたM先生は、列車が駅に着く夕方まで休んでいられるようにと、彼が暮らしている部屋に、僕をわざわざ招待してくれた。
 M先生の部屋は、土色の壁に囲まれた、長屋造りのような建物の一室にあった。今でも、うっすらと憶えている。緑色のペンキで塗られた木の扉。細い廊下の脇に、炭をくべるかまど。天井の低い、薄暗く、ひんやりとした室内。幅の狭い寝台。机の上に置かれた何冊かの本と、英語の辞書。小さなブラウン管テレビと、その上に載せられた室内アンテナ。
 部屋に僕を残したまま、午後から二時間ほど学校へ授業をしに出かけていたM先生は、一人の若い女性を連れて戻ってきた。
「彼女は、学校の同僚なんだ。君のことを話したら、会いたいって言うから」
「どうして?」
「彼女の知り合いが、今、日本にいるんだ」
 M先生はそっけない口調でそう言うと、すい、と台所の方に行ってしまった。
 彼女は、僕の真正面にあった椅子に座った。赤い模様入りのロングスカート。切れ長の目に、ひっつめて束ねた長い髪。緊張しているのが伝わってくる。英語はあまり話せないらしい。僕は鞄からノートとペンを取り出して、漢字での筆談もできますよ、と伝えた。英単語と筆談と身振り手振りでのやりとりが始まった。
——私の付き合っている人が、一年前から、東京に住んでいるんです。
 彼女はノートに漢字で「中野坂上……」と書いた。
——知っていますか?
——もちろん。
——それは、東京のどのあたりですか?
 僕はノートに円を一つ、横線を一本描いた。山手線と中央線。円の外側、やや左の方に印をつけた。
——彼は、日本語学校で勉強しています。学費と生活費を稼ぐために、学校が終わったら、夜中までバイトをしてるんだそうです。
 廊下の方から、ザッ、ザッ、と、M先生がシャベルで炭をすくって、かまどに放り込む音が聞こえてくる。
——ハンバーガーとか、そんなものばかり食べてるって、手紙に書いてありました。学校とバイトで忙しくて、住んでいる部屋にはあまり帰れないんだそうです。最近は、連絡もなかなか取れなくて……。
 彼女は膝の上で、きゅっと両手を握っている。細い手だ。
——どうすれば、日本に行けますか?
——え?
——私、日本に行きたいんです。東京で、彼のそばにいたい。どんな手続きをすれば、日本に行けるんでしょうか?
——僕はよく知らないけど……ヴィザを取ったりする必要はあると思います。
——難しいんですか。
——あとは、お金もそれなりにかかりますね。
——そうなんですか。やっぱり、大変なんですね……。
 M先生は、僕からちらりと見える場所で、キュウリを手でちぎってボウルに入れている。下を向いたまま、こっちを見ない。
 僕はふと、腕輪のことを思い出していた。敦煌で鳴沙山に行った時、入口の脇の土産物屋で売られていた、小ぶりな瑪瑙(めのう)色の腕輪。M先生はかなりの時間をかけて吟味して、その腕輪を選び出し、買っていたのだ。
 あの瑪瑙色の腕輪は、誰に……。
——東京は、どんな街なんですか? 物の値段は高いんですか? 留学してる人たちは、どんな生活をしてるんですか? やっぱり彼みたいに、うんと働かなくちゃ……。

 同僚の女性が帰っていった後、M先生は、何事もなかったかのように、手作りの夕食を僕にふるまってくれた。焦げ目のついた、数枚の焼きたてのナン。先生の好物、茹でた豚肉とキュウリのあえもの。僕ががつがつ食べるさまを、M先生は笑顔で眺めていたが、さきほどまでの彼女と僕の間のやりとりについては、一言も触れようとしなかった。
 出発時間が近づいてきたので、僕たちは部屋を出て、駅に移動した。東から到着した列車の車内はほぼ満席だったが、通路側に一席だけ空いていたのを、M先生が見つけてくれた。
「日本に戻ったら、手紙でも書いてくれよ」
 M先生はそう言って、僕の手を軽く握った。僕は何か言おうとしたのだけれど、言葉がもごもごとのどにつかえて、うまく出てこなかった。ゆっくりと動き出した列車の窓から、プラットフォームを横切って遠ざかっていく背中を見たのが、僕が最後に目にしたM先生の姿になった。

 その後の旅の途中、フランスのあたりで、僕はM先生宛てに絵ハガキを送った。返事は、来なかった。その絵ハガキが届いたかどうかもわからない。メールやSNSどころか、インターネットすら一般的な存在ではなかった時代の話だ。彼らが今、どこで何をしているのか、僕にはわからないし、おそらく知る術もない。
 あの別れ際、僕は、M先生に何を言おうとして、言えなかったのだろう。「ありがとう」と……「ごめん」だったのだろうか。あの時の僕は、何をしたわけでも、あるいは何かしてあげられたわけでも、なかったのだけれど。
 僕という人間が、M先生に友達と呼んでもらえるような存在であったのかどうかは、わからない。たぶん、違うのかもしれない。でも、僕にとってM先生は、一生忘れられない、異国で出会った初めての友達だと、今も思っている。

【著者プロフィール】

山本高樹(やまもと・たかき)
著述家・編集者・写真家。2007年から約1年半の間、インド北部の山岳地帯、ラダックとザンスカールに長期滞在して取材を敢行。以来、この地域での取材をライフワークとしながら、世界各地を取材で飛び回る日々を送っている。主な著書に『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々[新装版]』(雷鳥社)『ラダック ザンスカール スピティ 北インドのリトル・チベット[増補改訂版]』(地球の歩き方)『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』『旅は旨くて、時々苦い』(産業編集センター)など。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』(雷鳥社)で第6回「斎藤茂太賞」を受賞。

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