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死を待つ人々の家(前編)(著述家・編集者・写真家:山本高樹) #流離人のノート 第4回

 カルカッタという街の名が、コルカタに変わる前の年の、ある夏の朝。
 サルベーション・アーミーが運営する安宿の前でYさんと落ち合って、サダル・ストリートから東へと歩いていく。透き通るような朝の日射し。鳥たちの鳴き声がかまびすしい。道路脇にずらりと並ぶ黄色いタクシーの車体を、運転手たちが悠々と洗っている。
「あ、あそこが、マザー・ハウス!」
 二十分ほど歩いたところで、Yさんが、行手に現れた建物を指さした。入口にある看板は小さくて、以前ここに来た経験のある彼女に案内されていなかったら、見つけられなかったかもしれない。通りすがりのインド人の女の子が、さっと手を伸ばし、カランコロン、と呼び鈴を代わりに鳴らしてくれた。
 マザー・ハウスは、カトリックの聖人マザー・テレサが、この街で生前に住んでいた修道院だ。一九一〇年にマケドニアに生まれた彼女は、修道女となった後にインドに渡り、カルカッタのスラム街に暮らす貧しい人々の救済に、文字通り生涯を捧げた。僕がマザー・ハウスを訪れたのは、彼女が亡くなってから三年が過ぎた、二〇〇〇年の夏のことだった。修道院の一室に安置されている、マザー・テレサの亡骸が納められた白亜の石棺の上には、鮮やかな橙色のマリーゴールドの花々が供えられていた。
 Yさんに案内されるまま、別の一室に行く。中央のテーブルに、たくさんの厚切りのパンと、熱いチャイの入ったやかん、簡素なガラスのコップが並べて置かれていた。部屋の中にいる人の数は次第に増えて、最終的には、四十人くらいになっただろうか。
 ここに集まったのはみな、マザー・ハウスがカルカッタの市内各地で運営する施設で、ボランティアとして働くためにやってきた人たちだった。ボランティアたちはまず、この部屋でパンとチャイの朝食をいただいてから、それぞれが割り振られた施設へと移動するのだという。
 僕がこの場に来たのは、Yさんに誘われたのがきっかけだった。東南アジアを旅している時に知り合い、バンコクからダッカ経由でカルカッタに移動する時の飛行機も偶然一緒だった彼女は、カルカッタでしばらくの間、以前にも経験のあるマザー・ハウスのボランティアをして過ごす予定でいた。「あなたもやってみたら? いい経験になるよ!」とあっけらかんと言われ、確かに何事も経験してみないとわからないな、と思った僕は、カルカッタ滞在中の二日間だけだが、ボランティアとして参加することにしたのだった。
 自身はシュシュバワンという孤児院でのボランティアに行くというYさんは、「初めてなら、カーリー・ガートがいいんじゃないかな?」と僕に言った。どこに行くことになっても構わなかったし、ボランティアを統括する女性からも問題ないと言われたので、僕の配属先は、カーリー・ガートに決まった。

 同じ場所に行く数人のボランティアたちと一緒にマザー・ハウスを出て、近くのバス停から路線バスに乗る。大勢の乗客がひしめく車内は窮屈で、開いた窓から、むっと熱い風が流れ込んでくる。
 カーリー・ガートは、毎朝ヤギの首を刎ねてカーリー女神への生贄にする儀式が行われることでで有名な、ヒンドゥー教寺院の名前だ。その寺院のすぐ近くにあるマザー・ハウスの施設のことを、ボランティアの間ではカーリー・ガートと呼んでいる。
 施設の正式名称は、ニルマル・ヒルダイ。「死を待つ人々の家」という意味だ。マザー・テレサがカルカッタで最初に設立した施設で、重い病で瀕死の状態にある貧しい人々を収容し、無償で介護している。男女それぞれ五十人ほどの入所者の中には、回復して社会に戻れる人もいるそうだが、それでも半数ほどの人々は、ここで死が訪れるのを待っているのだという。
 通りの角にある入口から、中に入る。いくつかのシーリングファンが回る、高い天井の広間。通路の左右に、入所者たちのベッドが並んでいる。背の低いパイプベッドとマットレス、紺色のシーツ、紺または緑の枕。マットレスの上にビニールをかけているベッドもある。手前の数人は点滴を受けているが、あとはただ、じっとベッドに横たわっている人たちばかり。なぜだかわからないが、みな、顔つきが似ているように見える。消毒液の匂いが漂う室内は、静謐で、時間がゆったりと流れているように感じられた。
 ボランティア向けに用意されていたエプロンをつけ、仕事開始。まずは、朝食の配膳から。この日のメニューは、雑穀の粥、バナナ、カステラのような柔らかいスポンジケーキ。飲み物はチャイと水。場慣れしている何人かの欧米人ボランティアは、自力で食べ物を口に運ぶのが難しい人たちの傍らについて、彼らの食事を手伝っている。僕は水差しとチャイの入ったやかんを持って、それぞれをコップに注いで回る係を担当した。大部分の人が食べ終えたら、ステンレスの食器類を順次回収して、洗い場で洗う。
 次は、入所者の衣類やベッドシーツなどの洗濯だ。これが、何気に一番手間がかかる。膨大な量の洗濯物を、洗い、すすぎ、消毒、脱水など、四カ所に分かれて、手作業で洗っていく。洗うのは、洗剤と水に浸した洗濯物をガシガシ足で踏んでいけば何とかなるが、最後に水気を手で絞る時に、かなりの力が要る。シーツなどは二人がかりで絞るのだが、何度もくりかえすうちに、手の皮膚が次第にふやけてきて、布で擦れた部分が少し剥けてしまった。ひよわだなあ、と自分でも思う。
 英語が堪能で同い年の日本人男性と、韓国人の二十代の若者たち、そしてインド人の学生たちとともに、黙々と洗濯物を洗い、すすぎ、絞り続ける。数時間がかりで洗い終えた衣類やシーツを屋上に運んで干し、ようやく休憩時間。互いの旅について訥々と話しながら、チャイとクラッカーをいただく。その後は再び階下に降りて、入所者の昼食に用意されたフィッシュカレーを配膳して回る。
 入所者の中に一人、異様に食欲旺盛な老人がいた。少し目を離すと、他の人の分までカレーを奪おうとするのだ。ボランティアの間でどうしようかと少し相談して、しばらくの間、僕が横に座り、その手を軽く押さえておくことになった。老人はおとなしくなったが、目線はずっと、他の人のカレーに注がれていた。たぶん、腹が空いていたのではなく、いくぶん心を病んでいたのではないかと思う。
 昼食の食器の片付けの後、この日のボランティアの主な仕事は終わった、と告げられた。あとは、ベテランのボランティアが二、三人残っていれば大丈夫だという。僕たちは三々五々に別れ、死を待つ人々の家を後にした。
 カーリー・ガートからサダル・ストリートまでは、地下鉄を使う方が早い。サルベーション・アーミーのドミトリー(大部屋)に戻ると、急に、どっと身体がだるくなった。自分が借りているベッドに倒れ込み、一時間ほど眠る。目が覚めてからもしばらく茫然としていたが、とりあえず何か飲むか食べるかしようと、顔を洗い、宿を出て、ブルースカイ・カフェという店に行き、バナナ・ラッシーを注文した。
 この日、目にした場所と人々、出来事のすべてが、まったく整理できないまま、頭の中でぐるぐると廻り続けている。道行く人々やリクシャーを眺めながら、カフェのテーブルでのうのうとラッシーを飲んでいる自分に、少し、うしろめたさのようなものを感じた。

【著者プロフィール】

山本高樹(やまもと・たかき)
著述家・編集者・写真家。2007年から約1年半の間、インド北部の山岳地帯、ラダックとザンスカールに長期滞在して取材を敢行。以来、この地域での取材をライフワークとしながら、世界各地を取材で飛び回る日々を送っている。主な著書に『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々[新装版]』『ラダック旅遊大全』(雷鳥社)、『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』『旅は旨くて、時々苦い』(産業編集センター)など。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』(雷鳥社)で第6回「斎藤茂太賞」を受賞。

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