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辿り着けなかった岬(著述家・編集者・写真家:山本高樹) #流離人のノート 第7回

 異国をしばらく旅していると、時に、油断や不注意とは関係なく、どうにも避けようのないトラブルに遭遇することがある。
 中国の上海からトルコのイスタンブールまで、アジアを半年ほどかけて横断する旅をしていた時。パキスタンのクエッタという街の食堂で、一人の日本人男性に出会った。その時、僕はイラン方面に向かう夜行バスの出発を待っていたのだが、その男性は僕とは逆に、イランからパキスタンに移動してきて、ここから日本を目指して、さらに東に向かうとのことだった。鼻梁のあたりに、何かにぶつかったような生々しい傷があって、どうしたのかと訊くと、「事故で……」という返事が返ってきた。
 彼がイランのある街から別の街へと移動していた時、乗っていたバスが、反対側から来た別の車と、ほぼ真正面から衝突してしまったのだという。彼はバスの車内でも後ろの方に座っていたので、顔をぶつけて傷を負ったくらいで済んだのだが、バスの前の方にいた運転手や乗客の中には、重傷を負ったり、亡くなってしまったりした人もいたらしい。
「……あなたも、イランに行くんですよね? 気をつけてくださいね。まあ……気をつけたところで、避けようがないですけど……」
 思い返すのもしんどそうに彼はそう言って、傷の近くに手をやり、はーっ、とため息をついた。
 交通事故と同じか、それ以上に避けようがないトラブルは、自然災害だ。天候の急変に伴う大雨や洪水、土砂崩れ。土地によっては逆に、極端な乾燥による大規模な山火事なども起こりうる。
 僕自身、ライフワークとして取材し続けているインド北部のラダック地方では、自然の気まぐれに幾度となく振り回されてきた。バスでの移動中、土砂崩れで進めなくなって立ち往生してしまったりするのは、ざらだった。ラダックからデリーに飛ぶ飛行機が大雪でキャンセルになってしまった回数は、片手では数え切れない。
 ある年の夏、ラダックでトレッキングをしていて、標高四千メートルの高地で幕営していた夜に猛烈な集中豪雨に見舞われた時は、もう助からないかも、と観念した。幸い、僕自身はどうにか無事に切り抜けられたのだが、その集中豪雨が引き起こした土石流災害は、ラダック各地に甚大な被害をもたらし、死者と行方不明者の総計は、六百人以上に達した。
 それでも悪天候はまだ、最新の天気予報に気をつけていれば、まだある程度は避けられる場合もあるのかもしれない。しかし、地震に関しては、現代の最新技術を駆使しても、なかなか正確には予測しきれない。

 二〇〇四年十二月、僕は三週間ほどの予定で、一人でインド南部を旅していた。ムンバイから入国し、世界文化遺産に指定されているアジャンタとエローラの遺跡を見学してから、国内線でケーララ州へ。コーチンの街で数日過ごした後、クリスマス・イブとクリスマス当日は、コヴァーラム・ビーチという海辺のリゾート地に滞在していた。
 海水パンツ姿でビーチ・リゾートを闊歩するような過ごし方は、体格も懐具合も貧弱な自分にはまったく向いていない、と思い知らされた僕は、翌日、さらに南に向かうことにした。インド最南端の岬、カニャークマリ。この国を旅する者なら、誰もが一度は訪れてみたいと思い浮かべる場所だ。最果ての岬に佇んで、沈む夕日と、昇る朝日を見てみたかった。
 カニャークマリは、コヴァーラム・ビーチからは、ローカルバスで二時間ほどの距離にある。その日の朝、空は穏やかに晴れていて、潮の匂いのする微風が心地よかった。出発前のバスが停まっていた駐車場に、綺麗な木漏れ日の陰影が落ちていたことを、今もよく憶えている。
 午前中の早い時間に出発したバスは、順調に一時間半ほど走った後、ナガルコイルという街のバスターミナルに停まった。客の乗り降りが終わったら、すぐに出発すると思っていたのだが、バスはなかなか動き出さない。そのうち、運転手と車掌が何か大声で呼ばわると、乗客たちはひとしきりざわついてから、それぞれの荷物を抱え、バスを降りはじめた。何が起こっているのか、現地語を知らない僕にはさっぱりわからない。
 立ち去りかけていた車掌に、英語と身振り手振りを交えて訊いてみる。
「このバスは、カニャークマリには行かないの?」
「行かない! ここで終わりだ」
「どうして? 何があった?」
「アースクエイク!」
 地震……? 今日どころか、インドに着いて以来、地震の揺れなど、一度も感じたことがないのに。
「全然揺れてないじゃない。どこで?」
「……ビッグ・ウェーブ!」
 ビッグ・ウェーブ……津波? にわかには信じられない。だって、空は、こんなにも穏やかに晴れ渡っているのに。
 ともあれ、ナガルコイルからカニャークマリに向かうバスは、この日は一台もないらしい。僕はここまで乗ってきたバスを降り、ターミナル内であちこち尋ね回って、一時間後に出発するというマドゥライ行きのバスを見つけた。
 カニャークマリに辿り着けないまま、北東のマドゥライへと向かう。バスの車窓からどんな風景が見えていたのか、今となってはあまり思い出せない。一度、風力発電用のプロペラを戴いた塔が、たくさん建ち並んでいる丘陵を見たような……。カニャークマリに辿り着けなかったくやしさと、何が起こったのかよくわからないもどかしさとで、僕はうつろな気分で、堂々巡りの考えごとをぐるぐると続けていた。
 日が暮れる頃になって、ようやくマドゥライに到着。安宿の部屋を確保した僕は、宿のロビーのテレビで流れていたニュース映像と、その後に立ち寄ったサイバーカフェで検索した日本語のニュース記事で、その日の朝に何が起こったのかを、ようやく知った。
 インドネシアのスマトラ島の沖合で、マグニチュード9に達する巨大地震が発生。その直後、猛烈な速度で押し寄せた津波が、インドの東海岸一帯やスリランカなどを直撃していたのだった。僕が向かっていたカニャークマリも、大きな被害を受けていたようだ。帰国後にあらためて調べた情報によると、この地震と津波による死者・行方不明者の数は、インド国内だけで二万人以上。世界全体では、二十二万人以上に達したという。
 もし、僕がカニャークマリに行く日が、一日早かったら……あるいはもし、地震が発生したタイミングが、半日遅かったら……。僕自身の名前も、津波による行方不明者リストに書き加えられていたかもしれない。
 その後、マドゥライから先、帰国便に乗る最終目的地のチェンナイまでの旅程は、当初はポンディシェリーやマハーバリプラムといった海辺の街を辿る計画だった。でも、それらの街もすでに津波の被害を受けていたし、余震でまた津波が来る可能性もあった。僕は計画を変更し、マイソールやハンピといった内陸部の街を回ってから、チェンナイに向かうことにした。
 インド南部を巡るその旅の残りの日々は、正直、心ここにあらずといった状態で、あまり、というか全然、楽しめなかった。地震という自然の気まぐれな不意打ちによって、二十万人以上もの人々が命を落としてしまったという事実。そんな時に何もできないまま、惰性で旅を続けざるを得ないという無力感。それらがただただ、ずしりと心にのしかかっていた。
 旅という行為は、本来、その土地の人々が平和で穏やかに暮らせていてこそ、そこを訪れて楽しむ余地が生まれるのではないかと、僕は思う。最近は、ダーク・ツーリズムと呼ばれるスタイルの旅も注目されているようだが、それらもやはり、その土地の状況がそれなりに沈静化していることが前提になる。そう考えていくと、今の世界で、本当に何の気兼ねもなく楽しめる旅が成立しうるのは、実はそれほど広い範囲ではないのかもしれない。

 旅に限らず、人生の中でも僕たちは、不幸せ、あるいは死そのものと、紙一重のところで日々を過ごしている。運命の歯車がほんの少しずれただけで、たやすく消し飛んでしまうほど、人生は脆い。
 もしかすると僕たちは、あらゆる種類の偶然が次から次へと積み重なって、ジェンガのようにゆらゆら揺れている塔の上に、しがみついているだけの存在なのかもしれない。いつか必ず崩れ去る時が来る、頼りないその塔の上で、僕たちには、何かできるのだろう。何を残せるのだろう。僕には、今もわからない。

【著者プロフィール】

山本高樹(やまもと・たかき)
著述家・編集者・写真家。2007年から約1年半の間、インド北部の山岳地帯、ラダックとザンスカールに長期滞在して取材を敢行。以来、この地域での取材をライフワークとしながら、世界各地を取材で飛び回る日々を送っている。主な著書に『ラダックの風息 空の果てで暮らした日々[新装版]』『ラダック旅遊大全』(雷鳥社)、『インドの奥のヒマラヤへ ラダックを旅した十年間』『旅は旨くて、時々苦い』(産業編集センター)など。『冬の旅 ザンスカール、最果ての谷へ』(雷鳥社)で第6回「斎藤茂太賞」を受賞。

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