死を待つ人々の家(後編)(著述家・編集者・写真家:山本高樹) #流離人のノート 第5回
インド西部の街カルカッタ(現コルカタ)で、カトリックの聖人マザー・テレサが設立したホスピス、ニルマル・ヒルダイ(死を待つ人々の家)でのボランティア参加、二日目。
前の日と同じように、朝、マザー・ハウスに集合し、厚切りのパンとチャイの朝食をボランティア仲間といただく。その後、同じ施設に行く人たちとともに路線バスに乗り、カーリー・ガートに向かう。
人間は、どんな環境に置かれても、ある程度はそれなりに慣れることのできる生き物だ、と思っていた。あの時の僕も、カーリー・ガートでバスを降りて、少し湿っぽい消毒液の匂いが漂い出る施設の戸口をくぐるまで、初めてだった前の日に比べれば、多少はこの施設の雰囲気に慣れたつもりでいた。
自分の鞄を荷物置き場に置き、エプロンをつけ、入所者たちに朝食を配る準備をしていると、ふと、広間の通路の隅に、毛布でくるまれた細長いものが置かれているのに気づいた。一メートル数十センチほどしかないので、ぱっと見は、中にあるのが何なのか、わからなかった。
それは、今朝亡くなったばかりの、一人の男性の亡骸だった。
白い衣服をまとった人々が数人、担架を一つ携えて、広間に入ってきた。彼らは亡骸を覆っていた毛布を開き、筋肉がほとんど残っていない、骨と皮ばかりの死者の両手を胸の前で組ませた。続いて腰から下の汚れを拭うと、慣れた手さばきで、亡骸の全身を白い綿布でくるんでいった。
静謐な広間の空気が、ほんの少し、動いたように感じた。近くのベッドで、上体を起こして座っていた白髪の老人が、綿布にくるまれていく亡骸を見て、うつむき、片手で目頭を押さえた。
白い布にくるみ終えられた小さな亡骸が、担架に載せられ、運び出されていく。その傍らで、僕はやかんを手に、チャイのおかわりを一人ひとりに注いで回った。
あの場所で経験したことを、説明しようとしても、どうにも言葉が足りない。自分が見聞きしたことを、そのまま、書き連ねていくしかないのかもしれない。
アァ、アァ、と、広間にか細く響き続けていた、女性のうめき声。
痛みで疼く足を、ボランティアにさすってもらっている人。
食べ物を飲み込もうとするたび、目に涙を浮かべながら咳き込む人。
水を求めてベッドから這い出し、よろよろと通路を彷徨う人。
おそろしくゆっくりと、さじで粥を口に運ぶ人。
横たわったまま、わずかな量の粥をさじで口に入れてもらっている人。
まったく身動きできない人。浅く小刻みな呼吸をくりかえす人。
かさかさに乾いた皮膚。痩せ細った手足。天井を見つめる瞳。
綿布にくるまれて運び出されていった人と同じように、どの入所者にも、その時は少しずつ、でも確実に近づいていた。彼らだけではない。この施設で働いているスタッフやボランティア、僕自身にも、その時は、いつか必ず訪れる。誰一人、逃れることはできない。
それでも、この死を待つ人々の家では、誰に対しても……時は不思議なほど穏やかに、淡々と流れているように感じられた。窓から流れ込む風が、ゆるやかに広間を巡って、吹き抜けていくように。悲しみも、あきらめも、後悔も、かすかな望みも、すべてをくるみ込んで。
入所者が朝食を食べ終わった後、回収した食器を洗って片付けていると、すでに洗濯場では、大勢のインド人学生のボランティアたちが、わいわいと張り切って声をかけ合いながら、洗濯に取り組んでいた。この日は早い時間に入所者たちのシャワーが終わったので、その分、ボランティアの人手が余ってしまったのだという。
彼らと一緒に洗濯に取り組み、洗い終えて絞ったシーツや衣類をバケツリレー方式で屋上に運び上げ、物干し台やトタン屋根の上に干していく。空はよく晴れていて、暑い。風も吹いているので、洗濯物もすぐに乾きそうだ。
この日は日曜日で、午前中は、カトリックのミサがあった。ミサが終わるまでの間、ボランティアの面々は二階で待機。それから昼食のカレーを入所者に配膳して回り、食べ終えた頃に食器を順次回収し、再び洗って片づける。そうしている間にすっかり乾いた屋上の洗濯物を取り込んで畳み終えると、この日のボランティアの作業はすべて終了。人手が余っていたこともあって、前の日に比べるとかなり楽に感じた。
ボランティア向けに用意されていた昼食を、ここで働いた数人の日本人と一緒に、屋上でいただくことになった。日除けのある場所を選んで、輪になって座る。この日の昼食は、アルティッキというジャガイモのコロッケのようなものと、パン、フルーツ入りのヨーグルト、チャイ。気持ちのいい風が、頬や首筋をなでて吹き抜けていく。
「うまいなあ、この、コロッケみたいなの」「ボランティアのおひるは、毎日これでもいいかもね」
チャイをすすりながら、互いの旅や仕事の話をする。旅行作家を目指している元記者。サーフィンをこよなく愛する若者。浪人中の夏にインドに来てしまった女の子。米国西海岸の大学で学んでいる女子大生。普段は幼稚園で主任として働いている先生……。そして、雑誌の編集部での仕事を辞めたばかりで、何の目的も見つけられないまま、旅に出てしまった僕。
死を待つ人々の家で、僕たちは、ボランティアとして差し出せる労力よりもはるかに大きなものを受け取っていたような気がする。本当には何もわからず、何もできないという無力さに気づかされたことも含めて。たぶん、みな、同じように感じていたと思う。
あの二日間の出来事は、二十年以上経った今も、驚くほど鮮明に憶えている。
あの時、あの施設で、僕がボランティアとして何かの役に立てたとは、一ミリも思っていない。ただ、あの施設での経験をしてからは、もし、誰かが何かで困っているのを見かけたら……しのごのあまり深く考えず、自分にできる範囲で、ほいっと手助けできるような身軽さは常に持っていたい、とは思うようになった。自分もいつ、助ける側から助けてもらう側になるか、わからないのだから。ちゃんと実践できているかと訊かれると、あまり自信はないけれど。
誰に対しても、死は、等しく訪れる。いつか必ず訪れるその時まで、せいいっぱい、なすべきことをしていければと、あらためて思う。自分だけでなく、誰かのためにも。